古本屋の殴り書き

書評と雑文

武術の達人/『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀

『雷電本紀』飯嶋和一
『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル
『鉄人を創る肥田式強健術』高木一行
・『肥田式強健術2 中心力を究める!』高木一行
『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀
『武術を語る 身体を通しての「学び」の原点』甲野善紀

 ・武術の達人
 ・鹿島神流の国井善弥

『惣角流浪』今野敏
『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽
『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』池月映
・『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義津本陽
『深淵の色は 佐川幸義伝』津本陽
『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』木村達雄
・『佐川幸義 神業の合気 力を超える奇跡の技法』『月刊秘伝』編集部編
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也
『肚 人間の重心』 カールフリート・デュルクハイム

身体革命
必読書リスト その四

 これはちょっと余談になりますけど、面白いと思うのは、やっぱり日本というのは、ある意味で超常現象とも言える「【殺気】」(さっき)とかを、暗黙のうちに、皆、了解しているんですね。
 つまり西部劇なんかでは、どんな早撃ちのヒーローでも、後ろからこっそり忍び寄られた者に、あえなくドンと頭をなぐられて気絶しますけど、日本の時代劇の場合は、主人公の剣の達人は女子供を人質に捕られたりして、やむなく刀を渡すとかいうことはあっても、いきなり後ろからドンとやられることはないですからね。
 そんな頼りない主人公だったら見る気にならないという、そういう前提があるでしょ。呆気(あっけ)なく、隙を衝(つ)かれてやられたら、やっぱり、皆、興ざめになっちゃうわけですよ。つまり日本の時代劇の主人公になるような剣の達人というのは、騙(だま)し討ちに遭っても、それを殺気として感じて、必ず対応できなければならないということが、不文律としてあるわけです。
 ところが外国の場合、もし不意討ちが分かるとすれば、鏡に映ったとか、チラッと影が見えたとかと、必ず理由付けがあるんです。そうでなければ、あえて前提条件として、「こいつは超能力者なんだ、だからテレパシーで分かるんだ」という、設定が必要なんですよ。そうでなければ外国の場合は、見ている人間が納得しない。
 ところが日本の場合は、逆に、そういうものは全然要らないから、もしそんなふうに、単純に不意を衝かれて、あえなくやられたら、興ざめになるという構造があるわけです。
 つまりそのくらい、皆、暗黙のうちに、それほど質的に違うんだという……つまり「武術の達人なら、そのくらいのことは当然できなきゃおかしい」というのがあるわけです。ところが現代の現実は剣道家は剣道が専門ですから柔道家のようなことはできなくても当然という、昔話からみれば、凄いギャップがあるわけです。ところが、日本という国はそのギャップを共存させているんですから不思議ですね。
 ですから、剣道なり何なりの、現代武道の大家といわれるような人達、まあ、いろいろいらっしゃるでしょうけど、そういう人がお酒を飲んでいる時に、「昔あったような凄い達人のエピソードはいったいホラ話だと思いますか、本当にあったことだと思いますか」と聞けば、これは統計をとったわけじゃありませんから分からないですけど、ほとんどの人達は実感としては、信じておられないようなんですよ。現実に、そういう段違いの技術があったということをね。
 人によっては、「いや、それはできた」と言う人もいるかもしれませんが、もし本当にそのことを信じているなら、「それを探究しない」、ということはずいぶん怠慢な話です。そして実際には、そうした昔の剣客の術理を具体的に研究しているという人の話は全くと言っていいほど聞きませんから、やはり本気で信じていないのでしょう。
 けれど、公には、皆、そうは言えない。なぜかというと、「昔の剣客というのは凄かったんだ」ということを言っておかないといけない、というきまりごとみたいなものが剣道界にあるからです。だから、誰も「昔の剣客なんて、本当は凄くなかったんだぞ」とはなかなか言えないわけです。そういうところがいかにも日本的なたてまえ社会ですね。

【『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀〈こうの・よしのり〉(PHP文庫、2002年/PHP研究所、1995年『武術の新・人間学 失われた日本人の知恵とは』改題)】

 古(いにしえ)の武術の達人を知りたければ本書を開くとよい。私は本書で佐川幸義〈さがわ・ゆきよし〉を知った。現代においても一際優れた身体能力を発揮するスポーツ選手は多い。だが、武術を極めた人物が達した領域はその比ではない。神憑(がか)りとしか表現のしようがない技を身につけているのだ。もはや、仙人や天狗のレベルに近い。あるいは鬼か。

 全くジャンルは異なるのだが、高階秀爾〈たかしな・しゅうじ〉著『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い』を併せて読めば、日本文化の独自性に対して理解が深まる。サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』で日本を独自文明の一つとして数えたのは慧眼である。

 確かに日本人には気や第六感を重んじる文化がある。阿吽の呼吸とか、「男は黙ってサッポロビール」(CM)とか、言葉を介さぬコミュニケーションを重んじる。その裏側には言葉を軽視する風潮がある。大体、「言の葉」という言葉自体がそれを示している。このため日本人には論理性を追求する学問的姿勢が薄かった。日本の言葉は句歌において真価を発揮した。自然を愛(め)でる言葉はあっても、神仏の絶対性を証拠付けるドグマ(教条)は存在しなかった。そのような国で啓典宗教形而上学が根づくはずもない。

 日本が戦後、技術立国として世界に飛躍できたのも決して偶然ではない。匠(たくみ)と呼ばれる技術者や、武術家の技が文化的DNAに埋め込まれているのだろう。

気配を察知する