古本屋の殴り書き

書評と雑文

村上専精と宇井伯寿/『ブッダ入門』中村元

『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元

 ・ブッダの遺言「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ」~自灯明・法灯明は誤訳
 ・村上専精と宇井伯寿

『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』馬場紀寿
『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

 そのくらい厳しい先生でしたが、この先生にして、そのさらに前の先生に叱られたことがあるのです。村上専精(せんしょう)先生といって、「大乗非仏説」などを提唱された方で、その他の面でも当時としては斬新な考え方の学者で、博学な先生でした。その村上先生に宇井(伯寿)先生が会われた時に、村上先生はこういわれた、「えっ。君は本を読むのに火鉢を置くのか」。つまり、本を読むというのは修行なのです。それを横に火鉢を置くなんて、そんなだらけたことはけしからんというのですね。今はもう、どこに行っても全館冷暖房でしょう。村上先生に言わせたら堕落の極地です。

【『ブッダ入門』中村元〈なかむら・はじめ〉(春秋社、1991年/新装版、2011年)

「火を焚(た)く」(暖房を使用することを北海道ではこう言う)季節になると必ず思い出すテキストである。

 村上は宇井よりも31歳年上である。年齢で見れば親子ほどの違いだが、実際は孫子ほどの懸隔があったと思われる。なぜなら、村上が生まれたのは嘉永4年で、明治に至るまでは安政-万延-文久-元治-慶応といった元号を挟んでいるためだ。宇井は明治15年生まれである。

 村上が『仏教統一論』で大乗非仏説を唱えたのが1901年。昭和に入って仏教系新興宗教が雨後の筍(たけのこ)のように乱立した事実を思えば、恐るべき先進性である。

 勝海舟が1823年生まれだ。オランダ語の書籍を書き写していた時代である。つまり、「本を読む」意味合いが時代や世代によって大きく変わってゆくことを示すエピソードだと思う。

 学問の世界にも修行の風情(ふぜい)があったのだ。現代ではすっかり飯の種になってしまった感がある。

 本に向かうことは人と相(あい)対することである。しかも書籍が凄いのは口から出た言葉ばかりではなく、頭の中の言葉まで教えてくれるところだ。周囲に人物がいないと嘆く前に、書物を開くことが正しい。