古本屋の殴り書き

書評と雑文

怒りと妄想のメカニズム/『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
『仏陀の真意』企志尚峰
・『必生(ひっせい) 闘う仏教佐々井秀嶺
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
・『これも修行のうち。 実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』草薙龍瞬

 ・怒りと妄想のメカニズム

『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

「怒りはたしかに感情ですが、その原因は、ひとつではありません。怒りには、その原因に応じて、比較的解消しやすいものもあれば、解消にかなり時間がかかるものもあります。
 怒りには、その原因に応じた深さの層があるのです。
 あなたの中には、根が深い怒りの層と、今の生活からくる浅い怒りの層とがあるように思います。【あなたの神鏡は、さまざまな怒りの層が集積した“怒りの複合体”みたいなものかもしれません】」

【『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬〈くさなぎ・りゅうしゅん〉(宝島社、2018年)以下同】

 タイトルが最悪で小説にもかかわらずノウハウ本かと錯覚させるデタラメ振りで宝島社の無見識が見事に露呈している。

「深さの層」とは何であろうか? 傷の深さもさることながら、時間的な長さも関係しているように思う。つまり幼児期における怒りの経験であり、トラウマとも言うべき傷である。それは多分些細な出来事にすぎないのだが、自分という存在が否定された衝撃は人生を左右するほどの性質があり、強固な信念が形成される端緒となる。

 最近、なんとなく自分の幼少期を思い出そうと試みているのだが、あまりうまくゆかない。記憶をさかのぼるのは4歳までが限界だ。それ以前のことは淡い場面しか浮かばない。

 当時、札幌市の山の手という住所に住んでいた。決して山の手地域ではなかったが。外で遊んでいた私は突然便意を覚えて、そのまま力んだらズボンの中に漏らしてしまった。「あ、やっちゃった」くらいにしか思っていなかったのだが、直ぐ自宅に戻ると母方の祖母が来ていて、結構な剣幕で叱られた。見下されたような言い方をされたことまで覚えている。風呂場でケツを洗ってもらったのだが感謝の念は湧いてこなかった。私は祖父母から優しくされた記憶がない。兄弟もたぶん一緒だろう。

 4歳でウンコを垂れるのは感心しない。ただ、55年を経た今でも時折思い出すのは私の心の傷が疼くためだ。その時の「嫌な感じ」がずっと残っているのである。ひょっとすると、「受け入れてもらえない存在」「愛されない存在」と自覚した可能性すらある。

【怒りの原因=刺激+反応】

「怒りが湧く最初の原因は、この二つです――“刺激”と“反応”。
 たとえば、誰かにイヤミを言われたとしますね。その言葉は、物理的には音という空気の振動にすぎません。それを耳の鼓膜がとらえて、脳に信号を送って、言葉として認識するところまでが“刺激”です」

 ヘンな解説だと思った。音は空気の振動だなんて、小学生でも知っている。それが、怒りを作り出す刺激だと?
 和尚は続けた。
「すべての感情は、心が刺激を受けていることから始まります。言葉という音の刺激を受けたとき、脳はその意味を理解しようとします。このとき言葉の意味を、反応せずに“ただ理解する”だけなら、怒りは生まれません。“あなたが言っている意味はわかります”で終わりです。
 しかし、【怒りで“反応”すると、怒りが生まれます。これは、言葉という音の刺激が原因ではありません。自分自身の“反応”が原因です】」
「でも、相手がひどいことを言ってきた場合は、どうですか。怒りの原因は、相手の側にあるじゃないですか」
「いえ、相手は関係ありません。相手というのは、あえて言うなら“見えている”だけです。他人の姿は、網膜がとらえた光にすぎません。【あなたが言う“相手”というのは、視覚と聴覚の産物でしかないのです】」

 脳は外部情報に意味を付与する。因果関係を構成して物語を紡ぐのだ。映画の中で「お前は馬鹿だな」という科白(せりふ)があっても何とも思わない。ところが面と向かって誰かが自分に向かって言えば話が変わってくる。まして衆目のあるところで言われたら意味が全く異なってくる。

「見えているのは暗がりですが、僕が嫌いな同僚も上司の姿も、浮かんできます。ちゃんと見えていますよ」
「【目を閉じてなお見えるものは“妄想”です。あなたが勝手に作り出しているもの。客観的には存在しません】」

 つまり過去は妄想なのだ。とすると自我も妄想となる(笑)。経験という行為はあるが、それが体験として語られる時に必ず編輯(へんしゅう)が加えられる。そして、語られた体験が「新たな物語」となるのである。

「【それは、相手に怒っているのではなく、《自分の妄想に怒っている》状態です】」

 傷ついた物語は何度も再生され、痛みを広げてゆく。輪廻の本質はここにある。脳には苦楽の繰り返しを好む機能がある。

「だけど、ずっと続きますよ。イライラは、長時間消えません」
「それは、妄想に“執着”している状態です。最初の反応がしばらく続く状態を、執着といいます。
 あなたはその人の姿を妄想し続け、その妄想に反応して、怒り続けている。
 つまり、同じ妄想と怒りを繰り返す、執着という精神状態に留まっているのです。
 ですが、その状態のどこにも、相手は存在しません。確かに在るのは、あなたの執着だけ。
【執着という精神状態の中で、妄想と怒りをみずから繰り返しているだけです。相手には関係なく】」

 妄想を消すことが、あるいは妄想から離れることが諸法無我に通じる。