古本屋の殴り書き

書評と雑文

所有という幻/『ニュー・アース』エックハルト・トール

『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます』エックハルト・トール
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
・『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教えエックハルト・トール

 ・所有という幻
 ・意識変容の第一歩

『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン
『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編

悟りとは
必読書リスト その五

 何かを「所有する」、これはほんとうは何を意味しているのだろうか? 何かを「自分のもの(mine)」にするとは、どういうことなのか? ニューヨークの街頭に立って摩天楼の一つを指差し、「このビルは私のものだ。私が所有している」と叫んだとしたら、あなたはとてつもなく金持ちか、妄想を抱いているか、嘘つきだ。いずれにしてもあなたは一つの物語を語っているのであり、そのかでは「私」という思考の形と「建物」という思考の形がひとつに溶け合っている。所有という概念とはそういうことだ。誰もがあなたの物語に同意するなら、所有を証明する書類が存在するだろう。あなたは大金持ちだ。誰も同意してくれないなら、あなたは妄想患者か虚言症かもしれないということで精神科医のもとへ送られるだろう。
 大切なのは、人が物語に同意してくれようとくれまいと、【物語と物語を形成している思考の形は実はあなた自身とは何の関係もない】、と認識することだ。たとえ人が同意してくれても、結局は物語、フィクションであることに変わりはない。多くの人は、死の床に就き外部的なものがすべてはげ落ちて初めて、どんなモノも自分とは何の関係もないことに気づく。死が近づくと、所有という概念そのものがまったく無意味であることが暴露される。さらに人は人生の最後の瞬間に、生涯を通じて完全な自己意識を求めてきたが、実は探し求めていた「大いなる存在としての自分」はいつも目の前にあったのに見えなかった、それはモノにアイデンティティを求めていたからで、つきつめれば思考つまり心にアイデンティティを求めていたからだ、と気づく。

【『ニュー・アース』エックハルト・トール吉田利子〈よしだ・としこ〉訳(サンマーク出版、2008年)】

「所有」というのはかつて興味があったテーマである。

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
人間が人間に所有される意味/『奴隷とは』ジュリアス・レスター
所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 住心地のよい家、最新のスポーツカー、美しい妻、将来が約束された子供たち――いかにも男の自尊心が満たされる「所有物」だ。

 私はZ1000SX(Ninja1000SXと同型)とバーディー50という2台のバイクに乗っている。1000ccと50ccのバイクは大きさとスピードもさることながら、決定的に違うのは「周囲の視線」だ。Z1000SXで道を譲ると、相手車両から「ありがとう」を意味するハザードランプが必ず点灯するが、バーディー50だと9割方は無視される。ま、自転車扱いされるわけだ。

 私自身の意識はそれほど違いがない。ただ、速いバイクに乗っていると攻撃性(凶暴性)が増すのは致し方ない。エンジン回転数とギアの最適な位置を音で探るのがバイクを操る魅力であり、風に包まれる快感は何ものにも替え難い。

 人は多くの場合、第一印象で相手を判断する。銀座のホステスは客の靴と腕時計を見るそうだ。つまり客の懐具合を計(はか)っているのだろう。眼の前にいる男性は「カネを払う存在」でしかない。

 人相風体(にんそうふうてい)という言葉があるように、第一印象は見た目で決まる。衣類やバッグなどの所持品も当然考慮される。

 所有物には自我を拡大する作用がある。資本主義経済において所有物の多寡(たか)が幸不幸を左右する。我々は広告に駆り立てられ、周囲の人々が何を持っていて何を持ってないかに目配りをしながら、モノを買うことでしか幸福を感じられなくなっている。

 私は予(かね)てから鉄製品に興味があり、最初に買ったのは鉄フライパンであった。次に60BL(ポンド/約18kg)のケトルベルを手に入れた。そして、青紙2号割込のペティナイフ関孫六10000CCを購入した。10000CCは一時的な品切れとなったこともあって私の幸福は満たされた。私が買った時は8000円台であったと記憶している。現在は11000円だ。

 それほど料理ができるわけではないのだが、ある日突然、庖丁研(と)ぎに目覚めた。ステンレス製だと硬すぎるので鋼(はがね)の庖丁を求めたのだ。そして2本の庖丁は大切に仕舞っていて今日の日まで使っていない(笑)。所有欲なんて、そんなもんだろ?

 卑小な自我は所有によって拡大される。でも実際は何も変わっていない。変わったのは他人の視線だけだ。そして他人の視線の中に真実はない。羨望と蔑(さげす)みが交互に点滅しているだけだ。

 仏教の出家者が許されるのは三衣一鉢(さんねいっぱつ)のみである。究極のミニマリストだ。すなわち、煩悩から解脱するために「所有の否定」から始めるのだろう。