・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・気づきとは
・『ダイレクトパス』グレッグ・グッド
・『つかめないもの』ジョーン・トリフソン
・『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
・『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』エックハルト・トール
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
・『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン
・『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編
気づきは生じるものを見る。何が生じるとしても、それは気づきに対して現れる。(中略)気づきはすべての対象に対する唯一の主体なのだ。気づきには形はないが、あらゆる形を見る。気づきは見られることがないが、見ている。
気づきは「意識」と呼ばれることもある。気づきと意識というふたつの言葉は、ここで扱う教えでは同じ意味を持つ。気づきは「存在」と呼ばれることもある。これは気づきが非存在でも空虚でもないということを表している。気づきは「知識」という言葉で呼ばれることもあるが、それは気づきによって無知が消えることを伝えていr。まだ、気づきは「愛」と呼ばれることもあり、これは気づきが開かれていて、魅惑的で寛容で親密で、そこには制限も苦しみもないという側面に注目した表現だ。
自分の本質が気づきだということは簡単に経験できる。教えでは、気づきとは見られるものすべてを見ているものだとされている。「見る」ということが自分に生じているとき、人は視線を直接経験する。見ることが自分以外の場所で生じるのをじかに経験することはない。自分が見ていることを「見る」こともできない。もっとはるかに近いのだ。視覚はいつも【ここ】で生じるものとして感じられる。いつも「私」が見ていると感じられる。
気づきが見る。私が見る。どちらも同じだ。気づきとは「私」のことなのだ。あるいは、シュリ・アートマナンダの言葉を借りれば、気付きとは「私-原理」だ。【『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ナチュラルスピリット、2014年)】
「ダイレクトパス」(直接的な道)とはシュリ・アートマナンダ(クリシュナ・メノン、1883-1959)の教えで、「ラマナ・マハルシがみずからの教えを表すのに使った名称とはからずも一致している」(本文)。「ダイレクト」は「漸進的でない」との意。なんとなく頓悟や即身成仏を思わせる。シュリ・アートマナンダについては検索したのだがよくわからない。不明だ。インドの外交官じゃないよね?
ま、それは置いておこう。いくら知識を積み上げたところで悟りが開けるものではない。むしろそれでは悟りから遠ざかってしまうだろう。
私が、気づき・見る・瞑想を知ったのはクリシュナムルティによってであった。21世紀になって広がりを見せた非二元(ノン・デュアリティ)は「気づき」を徹底して掘り下げる。
ブッダ滅後から2500年を経て残っている修行は、瞑想・ヨガ・禅の三つである。ここに共通するのが「気づき」であり、ただこの瞬間に生を開く視点である。
話は変わるが常歩(なみあし)をマスターするのに1年ほどを要した。ひょっとすると、まだマスターしたとは言えないかもしれない。私はかなり運動神経がいいのだが、この間(かん)は「できない」ことを意識せざるを得なかった。バドミントンの回内運動も同様だった。待てよ。そういえば自転車のペダリングもそうだった。どんな運動でも初心者は「できない」ことを意識させられる。
あるいはストレッチだ。昔から体が硬いこともあって一向に柔軟性が増さない。真向法(まっこうほう)を中心に行っているが、ハムストリングスの硬さを思い知らされる。
このように運動やストレッチは体の状態に「気づく」効用がある。狩猟をモデルにした各種スポーツが大衆を魅了するのも、プレイヤーが現在に生きているためなのだろう。
気づきとは、過去を捨て去り、未来をかなぐり捨てて、ただ現在に生きることだ。ただ、今、今、今と、今を見つめることだ。過去や未来は幻想だ。時間は脳の中にしか存在しないことが科学的にも判明しつつある。すなわち瞑想とは連続性の否定であり、過去を死なせることなのだろう。
生きることは気づくことだ。そして気づくことが「在る」ことなのだ。多分。