古本屋の殴り書き

書評と雑文

意識変容の第一歩/『ニュー・アース』エックハルト・トール

『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます』エックハルト・トール
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
・『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教えエックハルト・トール

 ・所有という幻
 ・意識変容の第一歩

『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン
『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編

悟りとは
必読書リスト その五

 エゴはまた所有と「大いなる存在」を同一視する傾向がある。われ所有す、ゆえにわれ在り、というわけだ。そして多くを所有すればするほど、自分の存在も豊かになる、と考える。エゴは比較のなかに生きている。【私たちは、他人にどう見られているかで、自分をどう見るかを決める】。誰もが豪邸に住んで誰もが豊かなら、豪邸も富も自己意識を高めるのには役立たない。それなら粗末な小屋に住み、富を放棄して、自分は他人よりスピリチュアルだと思うことで、自分のアイデンティティを取り戻すことができる。他人にどう見られるかが、自分はどういう人間か、何者なのかを映し出す鏡になるのである。エゴの自尊心は多くの場合、他者の目に映る自分の価値と結びついている。自己意識を獲得するには他者が必要なのだ。そして何をどれくらい持っているかでほぼ自尊心が決まる社会で暮らしていると、それが集団的妄想であると見抜けない限り、自尊心を求め自己意識を充足させようとしてむなしい希望に振り回され、一生、モノを追い求めることになる。
 モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか? そんなことは試みないほうがいい。【モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える】。それまでは、自分はモノに執着していると気づくだけでいい。対象を失うか失う危険にさらされなければ、何かに執着している、つまり何かを自分を同一化していることがわからないかもしれない。失いそうになってあわてたり不安になるなら、それは執着だ。モノに自分を同一化していると気づけば、モノへの同一化は完全ではなくなる。【「執着に気づいている。その気づきが私である」】。それが意識の変容の第一歩だ。

【『ニュー・アース』エックハルト・トール吉田利子〈よしだ・としこ〉訳(サンマーク出版、2008年)】

「執着に気づいている。その気づきが私である」――この一文を紹介せんがために長々とテキストを入力した。気づきを自覚できるかどうかが運命の分かれ道なのだ。それは「見る」とも「知る」とも言い換えることができよう。驚嘆すべき一言だ。

 人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
 人生に挑み、ほんとうに生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。

『自分の中に毒を持て』岡本太郎

 モノとアイデンティティが結びつくと、モノは依存の対象と化す。王の威厳を支えているのは大きな城や、きらびやかな王冠や、華麗な衣裳だと勘違いしている人は多い。それらは王の付属物に過ぎない。王は民への思いと責任に拠(よ)って立っているのである。

 発見するためには、自由がなければならない。もしもあなたが束縛され、重荷を背負っていたら、あなたは遠くまで行けない。もしもある種の蓄積があれば、いかにして自由がありうるだろうか? 蓄積する人間は、それが金銭であれ、あるいは知識であれ、決して自由ではありえない。あなたは、物欲からは自由であるかもしれないが、しかし知識への貪欲は依然として束縛であり、それはあなたを抑えつけている。何らかの種類の獲得に縛りつけられた精神が、遠くまで乗り出し、そして発見できるだろうか? 美徳は、何かになることからの自由ではないだろうか? 性格もまた、束縛かもしれないのだ。廉潔は決して束縛ではありえないが、しかしあらゆる蓄積は束縛である。

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

「あらゆる蓄積は束縛である」との一言が重い。エゴはブラックホールのようにあらゆるモノを吸い込もうとする。世界的な富裕層が富の追求をやめることはない。エゴは地球上の全てを飲み込んでも決して満たされることはないのだろう。

 日本人に所有の意味を考えさせたのは阪神・淡路大震災(死者6434人・行方不明者3人)と東日本大震災(死者19759人・行方不明者2553人)であった。地震は街を灰燼(かいじん)に変え、津波は町を押し流した。クルマや家が流された映像の衝撃を忘れることができない。二度の震災で2万6193人の方が亡くなり、2556人の方が行方不明となっている。人はいつか必ず死ぬ。しかし理不尽な死を受容することは極めて難しい。

 そして新型コロナウイルスのワクチン接種を行うようになってから超過死亡者数が激増している。「日本の人口動態統計データを用いた厚生労働省研究班の分析では、2020年は過去5年のデータに基づく予測死亡数よりも平均で3.5万人少なく(過小死亡)、2021年は平均5.2万人の超過死亡、2022年は平均11.8万人の超過死亡がみられた。2020 - 2022年末までに報告されたCOVID-19の累積死者数は5万7千人で、累計超過死亡数は13.5万人だった」(Wikipedia)。「全世界の2020~21年におけるCOVID-19流行による超過死亡数(不確定区間[UI])は、1,483万人(1,323万~1,658万)であり、この推定値はCOVID-19死報告件数542万人と比較して2.74倍であった」(超過死亡1,483万人、コロナ死の約3倍/Nature)。

 こうした恐ろしい事実に対して政府もWHOも医療機関もワクチン接種ほどの真剣さを発揮していない。まるで突発的な風が吹いたかのような態度で傍観している。SNSでは以前から「ワクチン禍」と指摘する声が増えている。

 もしも新型コロナウイルスの流行~ワクチン接種~人口削減が人為的な動きだとすれば、持続可能な開発を主張してきた連中が主導したものだろう。限られた資源と食料の分配を憂慮したとはいえ、所詮自分たちの「所有」の問題に行き着く。つまり彼らの目的が果たせたところで、彼らのエゴが収まることはないのだ。

「新しい天と地」(New Earth)は絶望の中から生まれるのだろう。

捨てると、変わる/『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』佐々木典士