・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
・『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
・『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
・『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
・『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
・『今、永遠であること』フランシス・ルシール
・『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
・『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
・『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
・『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
・認識の中に認識をする人は存在しない
・あなたの櫂を投げ捨てなさい
・来ては去っていくもの
・欲望からの解脱
・『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編
・『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
パパジ●探求があるのはまだ認識が確立されていないからだ。探求者は探求を通してゆっくりと認識に向かう。それは自分自身を鏡の中に見るようなものだ。あなたは鏡を見、自分自身の反映を見て、自分自身を認識する。ひとたび自分自身を認識すれば、鏡を捨て去ってもかまわない。探求を投げだしてもかまわないのだ。探求すべき何かがあるという概念を棄て去りなさい。
認識の中に、認識をする人は存在しない。だが、誰もそのことを知らない。遥なる昔から、誰もが瞑想の中で座りつづけてきた。誰もこの認識の過程とその必要性について語った者はいなかった。寺院では祈りが捧げられ、僧院では羊の群れのように、踏みならされてきた道を歩こうとする。人の歩いた道に従ってはならない。自分自身の道を歩かなければならない。道なき道を行くのだ。【『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編:福間巌〈ふくま・いわお〉訳(ナチュラルスピリット、2007年)】
プンジャジの名前は「ハリヴァンシュ・ラル・プンジャ」(Hariwansh Lal Poonja 1997/10/13-1997/09/06)である。プンジャジの「ジ」は敬称のジーか(ガンディ➡ガンディジー、クリシュナムルティ➡クリシュナジーなど)。パパジ(尊敬するお父さん)の愛称で知られる。本物の覚者は記号化される。ゴータマ・シッダッタはブッダと仰がれ、クリシュナムルティはKと呼ばれた。その意味からもパパジと呼ばれたH・W・L・プンジャは本物だろう。
パパジは6歳で悟りの扉を開き、31歳の時、師匠ラマナ・マハルシの下(もと)で覚醒した。ここが自解仏乗(じげぶつじょう)のクリシュナムルティと異なるところである。だが、それゆえにわかりやすいのだ。
クリシュナムルティは鏡である。世界の諸相と人々の心の底までをも映す鏡だ。一方のパパジはストレートに励ますコーチのような存在だ。彼は質問者の手を取り、肩を支え、背中を押す。抽象的な話は一切ない。むしろ思弁を嫌うような趣すらある。「今だ」「今見つめなさい」「今それに触れなさい」「今目覚めるのだ。明日に延ばしてはいけない」と諭(さと)す。それを大乗の精神と言ってもよいだろう。
「認識の中に認識をする人は存在しない」――強烈な一言だ。これこそが諸法無我だ。悟りとは気づきなのだろう。気づきの中に気づく人は存在しない。ただ、気づきがあるだけだ。そして我(が)の消失した気づきは、見るもの聞くものを対象物と捉えることなく、そのものと化すのだ。世界との一体化ではない。世界そのものとなるのである。クリシュナムルティが「あなたは世界だ」と教えた意味もそこにあるのだろう。
アドヴァイタ(非二元)はシャンカラに始まる。そう。クリシュナムルティが常々小馬鹿にしたように「シャンカラですか?」と語った、あのシャンカラだ。クリシュナムルティが嘲笑したのは古い教典をありがたがる凡夫の愚かさであったのだろう。他人の言葉に依存する精神が悟りを開くことはない。外部の刺戟(しげき)を求めるところに欲望の本質があるのだから。
昔、在野の日蓮研究者が「唯識は好きではない」と語った意味がやっと腑に落ちた。唯識は認識=世界と考えるが、認識そのものに「気づいている」視点が存在する。先程、「意識」と書いたが、これは第六識というよりも、「観察する主体」を指したものだ。それをルパート・スパイラは「気づいている現存(プレゼンス)」と名づけた。すなわち、「今ここ」にあるのは、厳密に言えば「サティ」(気づき)だけなのだ。
「人の歩いた道に従ってはならない。自分自身の道を歩かなければならない。道なき道を行くのだ」――目的地は「私」の向こう側にある山脈(やまなみ)である。それはあまりにも近すぎて辿り着くことが難しい場所でもある。