・『「捨てる!」技術』 辰巳渚
・『人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵
・『コミック版 たった1分で人生が変わる片づけの習慣』小松易
・『たった1分で人生が変わる片づけの習慣』小松易
・『たった1分で人生が変わる片づけの習慣 実践編』小松易
・『大丈夫!すべて思い通り。 一瞬で現実が変わる無意識のつかいかた』Honami
・『人生を掃除する人しない人』桜井章一、鍵山秀三郎
・『ぜんぶ、すてれば』中野善壽
・捨てると、変わる
・『手ぶらで生きる。 見栄と財布を捨てて、自由になる50の方法』ミニマリストしぶ
ぼくたちの社会で長期政権についているのは、自民党ではない。その後ろにある「お金党」と「モノ党」と「経済党」の連立政権だ。その連立政権はああまりに蜜月で長期にわたっているので、もはや政権だとすら思われていない、当たり前の大前提になっているので、疑うこと、もっと言えば意識することすら難しい状態だ。
【『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』佐々木典士〈ささき・ふみお〉(ワニブックス、2015年/増補版、ちくま文庫、2019年)以下同】
私はこれを「マネー教」と呼ぶ。所有(意識変容の第一歩/『ニュー・アース』エックハルト・トール)の続きを。
資本主義は現代社会において経済というよりも、むしろマネー教として機能する。人々が「カネさえあれば……」と思い込んだ瞬間から、マネーは実体を持ち始め、真実として承認される。実際は等価交換を約束するだけの紙切れにすぎない。その約束機能を経済学では「信用」と称するわけだが、信用が真実に格上げされてしまうのだ。
【北朝鮮は国際通貨の空白地帯/『日本人よ!こうして植民支配のくびきを断て!! サバタイ派マフィア、300人委員会の脅しに屈するな![超アンダーグランド版] 国家非常事態緊急会議』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄】
そして現代の妄想は資本主義の発達によってマネーを媒介とした欲望の解放に向かう。神をも恐れぬ我々がカネの価値だけは信じているのだから、もはやマネー教と言ってよいだろう。
【我々が知り得るのは「脳に起こっていること」/『養老孟司の人間科学講義』養老孟司】
「当たり前の大前提になっているので、疑うこと、もっと言えば意識することすら難しい状態」については、佐藤優〈さとう・まさる〉が「思想」であると説明している。
佐藤●いま、コーヒーを飲んでますよね。いくらでしたか? 200円払いましたよね。この、コイン1枚でコーヒーが買えることに疑念を持たないことが「思想」なんです。そんなもの思想だなんて考えてもいない。当たり前だと思っていることこそ「思想」で、ふだん私たちが思想、思想と口にしているのは「対抗思想」です。護憲運動や反戦運動にしても、それらは全部「対抗思想」なんです。
【『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優、魚住昭(朝日新聞社、2006年】
疑わないことが、「絶対」と信じている価値観なのだ。日本人の感覚からすると「普通」「当たり前」が該当する。少し敷衍(ふえん)すると、「お天道様が見ている」という我々の感覚と、あらゆる出来事を「アッラーの思(おぼ)し召(め)しだ」とするムスリムの感覚は相似形を成しているのだろう。
モノを捨てて、本当によかった。
ぼくははっきりと、違う人間になり始めている。おおげさに聞こえるかもしれない。
誰かに言われた。「モノを捨てただけ」。
確かにぼくは捨てただけだ。
まだ何も成し遂げていないし、人に誇れるようなことは何もない。
だけどこのことだけは、胸を張って言える。
ぼくはモノを少なくして、毎日幸せを感じられるようになった。幸せが何なのか、少しずつわかり始めてきている。
この実感は解脱(げだつ)に通じているような気がする。そこから、プライドや過去の古傷や、ありとあらゆるプラスマイナスの経験を捨てることができれば確実に解脱へ至る。自我は様々なものを「掴(つか)んで」離さない。これを「手放す」のが解脱だ。全てを放せば煩悩の火は消える。
幸せとは、外部の光によって自分を照らしてもらうことではなく、自らが光を放って世界を照らすことなのだ。「一隅を守り、千里を照らす。これ則ち国宝なり(照千一隅此則国宝)」(最澄)。