古本屋の殴り書き

書評と雑文

マインドフルネスの限界/『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン

『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル

 ・存在とは
 ・マインドフルネスの限界

『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
・『われ在り I AM』ジャン・クライン

悟りとは

 マインドフルネス(ヴィパッサナー)は、今、欧米でスピリチュアルな道としてだけでなく、ストレスを軽減させ、健康を増進するというテクニックとして、とても人気があります。このテクニックは、経験が一瞬一瞬変化していくことに注意を払います。ちょうど猫がねずみを狙うときのような、あるいはお母さんが赤ちゃんの世話をしているときのような注意の払い方にたとえられます。このような練習によって、心は過去の記憶や未来への心配に取りつかれなくなり、今という経験の流れに中心をおくことができるようになります。
 しかし経験にこのような注意を払うということは、その名称(マインドフルネス=心を今にあてている、ということ)が示しているように、努力がいることになり、またリアリティから距離をおいて眺めているような、切り離された自己を強化してしまうことがあります。心(マインド)=フル(心をいっぱいにする)というのは、「目撃している」という心の働きを強化し、主体と客体、自他のギャップを強めます。このギャップこそ、実は目覚めが閉じようとしているギャップなのです。
 注意を払うという心は、たしかに熟練した瞑想者が尊ぶものです。しかし、本当の瞑想とは、心とは何の関係もないものです。本当の瞑想とは、何かをして作り出されるものではありません。
 数年、座布団の上で呼吸の数を数えること(数息観)を行った結果、私はやがて何時間もじっと座禅を続けることができるようになりました。しかし、私の座禅は、枯れ枝のように、干からびた命のないものになってしまいました。何の洞察も、目覚めも起こりませんでした。「初心者の心には、多くの可能性がある」と鈴木(俊隆)老師は言われました。「専門家の心の中には、それが少ない」とも。
 専門の瞑想家になるプロセスにおいて、私の心はかたくなになり、狭いものになり、初心者の無垢な心が失われていったのです。初心者の無垢な、オープンな、生き生きとした心こそ、修行のはじめに私に喜びを与え、活気を与えてくれたものだったのです。
 あるとき私は、一所懸命座禅を続けていましたが、そのとき、全体のプロセスがあまりにもおかしなものなので、笑ってしまったのです。今、ここに私の心があります。それは忙しく、瞑想を続けようとしています。その間、私は非常に深い「静寂」に抱かれており、それは身体の奥にまで感じられるようなものだったのです。長い間、続いていた瞑想の習慣は、そのとき古い皮のように剥(は)がれ落ちていきました。それによって顕わになったのは「今」というものの直接さでした。もはや瞑想をする必要はありませんでした。瞑想そのものが起こっているからです。私はただそのままにして、それに加わっていればよいのでした。行くべきところはなく、すべきこともなく、隠すものもありません。そこにあるのは、分けることもできず、言い表すこともできない「今」でした。
 ついに、私の心は、このほんのわざうかな間だけでも、何かをしようとすることをあきらめたのです。こうして私は、本当の瞑想の門口に立っていたのでした。

【『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン:松永太郎〈まつなが・たろう〉訳(PHP研究所、2009年/原書、2008年)】

 ステファン・ボディアンの慎重な言葉遣いによって、クリシュナムルティが努力を否定した理由が明白になる。

努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

 修行が定型化した途端、悟りから離れてしまうのだ。つまり、そこに自我が立ち入る隙(すき)ができてしまうのだろう。

 問題はもう一つある。修行としての瞑想は悟りへの手段となってしまう。瞑想がサティであれば手段では決してないはずだ。むしろ、生そのものが瞑想と捉えるべきだろう。

 形式とはかくも恐ろしいものだ。儀式に潜む陥穽を暴いて見事な一文だと思う。