古本屋の殴り書き

書評と雑文

サティとは「私-この気づいている現存(プレゼンス)」/『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ

『無(最高の状態)』鈴木祐
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『「私」という夢から覚めて、わたしを生きる 非二元・悟りと癒やしをめぐるストーリー』中野真作
『これのこと』ジョーイ・ロット
・『つかめないもの』ジョーン・トリフソン
・『オープン・シークレット』トニー・パーソンズ
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール

 ・サティとは「私-この気づいている現存(プレゼンス)」

『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン
『つかめないもの』ジョーン・トリフソン
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン
『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

悟りとは
必読書リスト その五

 頭痛を例に挙げてみましょう。車の音がやってきては消えるように、私たちは、あらわれては消える頭痛の感覚に気づいています。だからこそ、頭痛は自己の本質ではないとわかるのです。私たちの自己の体験、つまり、気づきによる気づきの体験は、常に、今ここにあります。そのため、私たちにとって本質的なことは、いつでも、今ここになければなりません。
 頭痛はあらわれては消えますが、自己は頭痛が消えてもここに残ります。こうして、頭痛は自己の本質ではないことがわかります。頭痛は、私【そのもの】ではありません。このように考えたことは今までなかったかもしれませんが、頭痛は、あらわれては消えることで、私たちの存在にとって本質的ではないことを自ら示してくれています。

【『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ:溝口あゆか監修、みずさわすい訳(ナチュラルスピリット、2014年/原書、2011年)以下同】

 まだ読書中である。衝撃が大きいため、じっくり味わっているのだ。行き掛かり上、企志尚峰〈きし・しょうほう〉著『仏陀の真意』の批判となるが、著作そのものではなく飽くまでも「サティ」に対する批判であることを断っておく。

 ルパート・スパイラは動画で知っていた。直ぐさま目を瞠(みは)った。その静謐(せいひつ)さに。本物はいつだって静かだ。慎重な話しぶりがクリシュナムルティとよく似ていた。言葉を紡ぐというよりも、体の反響を確認するような発声の仕方だ。そして驚くほど目が澄んでいた。

 2年ほど前から常歩(なみあし)のトレーニングを行ってきたが、ある時、来ては去る風景が突然見えた。「すべての物事は去る」と悟った。クルマやバイクだとスピードが速すぎてわかりにくい。だが、歩く速度は人生の歩みと似ている。今この瞬間は、ただ足の動きと目の前の光景にある。小さなサティ(気づき)ではあるが、私にとっては大切な出来事だった。

 痛みに苛まれる時、自我は痛み(苦しみ)と同化する。痛みは自由を失わせる。自我は痛みの虜(とりこ)となる。だが、時と共にやがて痛みは去る。ルパート・スパイラはここから、体=私でもなければ、感覚=私でもなければ、心=私でもないことを明かす。

 言い換えるなら、体、ここでは、顔、手、足は、世界における音や光景と同じく、私たちが注意を向ける対象であり、私たちはそれを知る主体、気づいている現存(プレゼンス)であるのだとわかります。
 ここに、シンプルで画期的な真実が姿をあらわします。「私-体」が体験し、知る主体なのではなく、「私-気づいている現存(プレゼンス)」が【体験し、知る】主体であり、体という対象物は、世界という対象物と同じく、【体験され、知られる】ものなのです。言い換えるなら、私たちは、世界に対する知覚に気づいているのと同じように、体の感覚に気づいているのです。

 サティとは「私-この気づいている現存(プレゼンス)」なのだ。思わず平(ひれ)伏しそうになった。十不二門(じっぷにもん)の色心不二門が完全に否定されているからだ。体はアンテナみたいなものなのだろう。少しわかりにくいと思うが、体が感じる快不快を【気づいている意識】が存在する。つまり体よりも次元が上(メタ)の視点が確かにある。体は受容器官なのだろう。

 では、多くの人が自己と同一視している心(マインド)はどうでしょう? 心(マインド)は、思考とイメージからできています。けれど実際のところ、思考、イメージ、記憶、怖れ、希望、欲望などがすべて収められた、永遠の容れ物としての心(マインド)の有り様を、私たちは直接的には知りません。私たちが見かけ上の心(マインド)として知っているのは、今ここにある、思考やイメージとしての心(マインド)だけです。
「今日の夕食は何にしよう?」という考えが浮かんだとします。このような考えは、世界に対する知覚や、体の中の感覚と同じように、かすかな対象物としてあらわれます。言い換えるなら、「私-心(マインド)」が体験を知る主体なのではなく、「私-気づいている現存(プレゼンス)」が知る主体であり、それが世界を、体を、そしてこの場合は、心(マインド)の対象物を知るのです。
 実際の体験を振り返り、体が体験を知る主体になったことがあったかどうか、自分自身に尋ねてみてください。顔が、手が、足が、何かを知り、体験することはできるでしょうか? 顔が、手が、足が、聞き、味わい、匂いを嗅ぎ、この本に書かれた文字を理解するでしょうか? 顔、手、足は、他のすべてと一緒に、【知られ、体験され】ているのではないでしょうか?
 思考やイメージはどうでしょう? 思考やイメージが何かを知り、体験するのでしょうか? 思考が何かを見て、イメージが何かを聞くのでしょうか? 思考がこの本に書いてある文字を理解するのではなく、思考は自己によって知られ、理解されるのではないでしょうか?
 体験にじっくりと対峙し、真実もしくは現実を試す手段として実際の体験のみに焦点を当てると、体や心(マインド)が【知り、体験する】ことはないのだとわかります。体や心(マインド)は、【知られ、体験される】のです。
「私-体と心(マインド)」が世界に気づくのではなく、「私-この気づいている現存(プレゼンス)」が体、心(マインド)、世界に気づいているのだとはっきり理解しましょう。
 私たちの自己は体や心(マインド)ではなく、実際には気づいている存在、現存(プレゼンス)であり、それが体や心(マインド)を知り、目撃する。この発見には、根源的かつ深淵な含みがあります。

 昔、在野の日蓮研究者が「唯識は好きではない」と語った意味がやっと腑に落ちた。唯識は認識=世界と考えるが、認識そのものに「気づいている」視点が存在する。先程、「意識」と書いたが、これは第六識というよりも、「観察する主体」を指したものだ。それをルパート・スパイラは「気づいている現存(プレゼンス)」と名づけた。すなわち、「今ここ」にあるのは、厳密に言えば「サティ」(気づき)だけなのだ。

 心は様々な縁(外部条件)によって動く。だが、その心の動きを「観察している主体」が確かに存在する。怒りに駆られた瞬間ですら、「怒りすぎだな」とか「怒るべきではないな」という気づきが須臾(しゅゆ)の間に浮かんでは消える。コンマ数秒の世界だ。

 善いことをしても悪いことをしても、また感情や欲望に翻弄されても、私たちはそれに「気づいて」いる。「存在するのは〈意識〉だけだ」とのトニー・パーソンズの言葉や、「【知】だけが存在している」というネイサン・ギルの悟りは、いずれも「サティ」(気づき)を示すものだ(『すでに目覚めている』)。

 これを日本語は「念」と翻訳した。念とは「今+心」と書くが、心=サティと解釈すれば原語に迫ることができよう。もっと言えば、気づき=悟りである。

 ヴィパッサナー瞑想は記憶や想念を手放すために強制的且つ機械的に現在の感覚に注意を払う方法であると私は考えている。言葉の意味を漂白し、ただ事実を認識するための修行なのだろう。

 たとえ災害や事故で死んだとしても、あるいは殺されたとしても、その瞬間、生と死の気づきがあるのだ。臨終正念(りんじゅうしょうねん)とはサティそのものだ。


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