古本屋の殴り書き

書評と雑文

気づきはあらゆる現象に先立つ/『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル

『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール

 ・気づきはあらゆる現象に先立つ
 ・聴くという技法

『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン
・『過去にも未来にもとらわれない生き方』ステファン・ボディアン
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
・『われ在り I AM』ジャン・クライン
『つかめないもの』ジョーン・トリフソン
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

身体革命
悟りとは
必読書 その五

 私というイメージは精神の働きによる投影、習慣によって強化された記憶にすぎないのだが、そのイメージとの同一化が私たちの実体を覆い隠している。自分を多数のなかにいる個別の制限された存在だととらえていれば、恐怖と欲求が引き起こされる。というよりも、恐怖と欲求はこの分離した個人的存在の本質そのものだ。この不安な状態から、私たちは幸福を、安全を探しはじめる。最初の段階では通常、この探求は物や知識の獲得、自己イメージの拡大、人間関係といったことに向けられる。そして、世界のいかなるものも切望を完全に満たすことはないと気がついたときに初めて、私たちはもっと深い問いを発しはじめる。
 これが、より意識的な精神的探求の始まりとなる。自分は身体でも人格でもイメージの連続でもなく、どのような種類の対象でもないことがわかりはじめる。自分の真の性質は、一切のイメージ、一切の思考に先立つ。身体も精神も気づきのなかにあり、世界もまた気づきのなかあにある。つまり、気づきはあらゆる現象に先立っている。
 そして私たちは、気づいている対象ではなく、気づいているということ自体を重要だと考えはじめる。自分を気づきとして、移り変わるショーの目撃者として感じはじめる。映画館のスクリーンと同じで、映像はつねに変化していても、スクリーンがそれに影響されることはない。真の自分と自分が気づいている対象のあいだに空間があるという感覚が広がる。個であった「私」はみずからの自律性を見出し、自分はあらゆるものから自由であると感じはじめる。もはや空間と時間に閉じ込められてはおらず、空間と時間は自分のなかにある。
 意識はどこか特定の場所にあるわけではないこと、知覚されるすべてのものは意識のなかにあることを私たちは理解し、そして実際にそう【感じる】ようになる。見ている者と見られている対象は分離してはない。見られているものは見るということのなかにある。見るということがなければ、見られているものは存在しない。知覚されるすべてが、意識のまさに本質だ。このとき私たちは自由のなかにあり、内側も外側もすでになく、切り離された自分、切り離された相手もいない。すべては愛の表現であり、すべては愛だ。すべては神であり、神のほかには何も存在していない。
 この理解とともに、「私」という個別の精神は消え去る。生は続くが、誰かとして存在しているという重荷はそこにはない。真の機能が、中心からではなく愛から生じる。自分が何か別のものになるのではなく、個別の存在であるという幻想なしに、自分がずっとそうであるものをただ認識するだけだ。何段もの霊的階層を一歩ずつ上がっていくのではなく、これが自分だと思っていたその「自分」には実体がなかったという認識が深まり続けていく。悟りは誰かに【属する】ものではない。それは、誰かで【ある】ということからの自由だ。

【『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ナチュラルスピリット、2017年/原書、2014年)】

 図書館から借りた。身体技法の解説が多いため購入した。札幌の実家で受け取った。7月のことだ。読む本が多くて、購入したことを失念していた。危うくまた買うところだった。

 一気に通読した。読みながら体が震えた。感動というのとはちょっと違う。真実を体感しているような反応であった。

 エックハルト・トールが説いた「インナーボディとつながるエクササイズ」(『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』)を行うと理解が深まる。

 帯に「【ジャン・クライン】直伝の技法で心身の緊張と収縮を解き放ち、【非二元】に目覚める――」とある。著者のビリー・ドイルはジャン・クラインに師事した。ジャン・クラインはボディワークに対する自身のアプローチを「カシミールのヨーガ」と呼んでいた。ジャンは医学を学んだ人で、音楽学者でもあった。1954年に彼はフランスを発ってインドに行き、3年間滞在した。もともと悟りを目指したわけではなかったようだが、強烈な出会いがあったようだ。

 amazonのカスタマーレビューで次のような記述を見つけた。

「ジャンの直弟子の一人が、Francis Lucille、そしてフランシスの弟子が、Rupert Spira。フランシス、ルパートの翻訳本も出ていてこちらも非常に面白い」(WorldIn)。

 ジャン・クライン➡フランシス・ルシール➡ルパート・スパイラという系譜か。とするとビリー・ドイルとフランシス・ルシールは兄弟弟子ということになる。

 身体技法は驚くほど動きが少ない。むしろ「止まっている」と言ってもいいほどだ。重力と体内の緊張を意識することに重点が置かれているような気がした。カシミールの非二元ヨーガは止観というべきか。

「気づきはあらゆる現象に先立っている」――胸に突き刺さる一言である。思考や感情、はたまた認識の手前に気づきがある。意識を意識する気づきだ。

 私は長らく末那識(まなしき)と混同してきたが、末那識には自我の残滓(ざんし)があるので別物と考えてよさそうだ。

 気づきに気づく。これを意識する。