・『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー
・『つくられる偽りの記憶 あなたの思い出は本物か?』越智啓太
・雲や蒸気のように曖昧な記憶
・記憶はビデオレコーダー的なモデルから再構成的なモデルへ変化
私は記憶の可変性の権威だとみなされている。「この人です」「この人を見ました」「この人がやったんです」――裁判では、宣誓した目撃者の証言を陪審員が信じるか否かによって、被告の運命が決まることがある。そのような裁判で、私は何百回も専門家の立場から証言した。証言台に立ち、学術的な真理を語り、裁判に携わる人びとにこう警告する。記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる広画面の黒板のようなものだ、と。特に陪審員には、心がさまざまな影響を受けやすいこと、他の情報が浸透してくる余地があることを強調する。分かりやすく説明するために、比喩を使うこともある。「心を、水を満たしたボールのようなものだと思ってください。そして記憶を、水に入れ、かきまぜた一匙のミルクのようなものだと考えてください。大人の心には、何千匙ものミルクが、混濁した状態で溶けこんでいます。……一体、水とミルクを分離できる人がいるでしょうか」。
私はこの比喩が好きだ。記憶が脳のどこかで永遠に保持されているという、よくある説明に対抗する比喩だからである。記憶は記録されたコンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管された堅固なファイルに例えられることが多い。だが私の考えでは、記憶は想起されるまでじっと一箇所に留まっているというようなものではない。記憶は手を触れることができる固形物というよりも、雲や蒸気のように、脳の中を漂うの【ママ】ものなのである。科学者は「霊」とか「魂」という言葉を使うのを好まないが、記憶はやはり物理的というより霊的な現象であると認めざるをえないように思う。風や息や立ち上る蒸気のように、うず巻状、層状の記憶は存在するかもしれない。だがそれは、触れようとすると、たちまち霧になって消えてしまう。
記憶に対するこのような見方を受けいれるのは難しい。私たちは大切に保管している記憶、つまり人や場所や出来事の記憶によって「自己」を構造化し定義している。そうやって過去を自分の一部であるように感じているのだ。記憶が夢や空想の世界に流れこんだミルクの分子のようなものだと認めてしまったら、どうやって現実と非現実を区別しているように振る舞えばよいのか。現実は記憶された現実にすぎず、記憶された現実は真実とはかけ離れたものかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、自分が把握しているのは仮の現実で、本当の現実は不可知な測り知れないものであるなど、喜んで受けいれられるだろうか。【『抑圧された記憶の神話 偽りの性的虐待の記憶をめぐって』エリザベス・F・ロフタス、キャサリン・ケッチャム:仲真紀子〈なか・まきこ〉訳(誠信書房、2000年/原書、1994年)】
2000年の刊行時は3800円+税であったが現在は5830円になっている。インフレの波が紙価にまで及ぶ。四六判より一回り大きいA5判なので高価になるのは仕方がないが、それにしては校正が手抜きで誠信書房の二流ぶりが窺える。訳文もすっきりしない。読んでいる時はわからないが書写するとよくわかる。名文はキー操作まで軽快になるものだ。
読み始めたばかりなので取り敢えず「教科書本」としておく。
超有名本である。学術書にしては読みやすく、理解が進む。
『「自己」を構造化し定義』する記憶が実は雲や蒸気のように曖昧な性質で、空想や誤解や妄想と溶け合い、事実とは懸け離れた物語が捏造(ねつぞう)される。つまり、「自我」こそは妄想なのだよ(笑)。
この指摘が凄いのは、原子核を取り巻く電子の構造と一致しているためだ。電子は惑星のように確固とした軌道を周っているわけではなく、確率としてしか存在しない。また、不確定性原理によって位置と速度を同時に観測することは不可能だ。
自我の本質は記憶だ。過去によって現在が束縛されている状態である。これを波動関数の収縮にまで敷衍(ふえん)してしまえば牽強付会の謗(そし)りを免(まぬか)れないような気もするが、過去に重きを置けば私はキューで撞(つ)かれたビリヤードの球と変わりがない。人生は惰性で進むこととなろう。
以下は2013年に見つけた画像である。残念ながらポストの貼り付けが不可となっている。
この手の写真が大好きである。写真の中にはシャッタースピードの時間幅が収まっている。では極論を述べよう。シャッタースピードを80年にして私を撮影すれば、果たしてどのような画像が撮れるのだろうか? ヒントはタイムラプス(低速度撮影)にある。答えは明らかだ。流れ星のような画像となるに違いない。
そんな一筋の軌跡の中に幸不幸があり、喜怒哀楽があり、人と人とのつながりがある。そうした時間軸で生きるのが人間という動物の定めなのだろう。
