古本屋の殴り書き

書評と雑文

似た者同士を集めて失敗/『ポストコロナの生命哲学』福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史

『もう牛を食べても安心か』福岡伸一
『生物と無生物のあいだ』福岡伸一
・『動的平衡2 生命は自由になれるのか福岡伸一
・『動的平衡3 チャンスは準備された心にのみ降り立つ福岡伸一
『目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか』伊藤亜紗

 ・似た者同士を集めて失敗

序 自然(ピュシス)の歌を聴け     福岡伸一

 人間とは不思議な生物である。脳を肥大化させたおかげで、経験から同一性を抽出して法則化し、特殊を集めて一般化し、本来はすべてが一回性の偶然である自然の中に、因果律を生み出した。つまり自然(ピュシス)を論理(ロゴス)に変えた。ロゴスとは、言語、構造、アルゴリズムと言ってもよい。ロゴスの力で自然を、客観視し、外化し、相対化した。過去から未来を予言できるようになった。

 ロゴスこそが、人間を人間たらしめた最大の力だ。このことで、風が吹けば飛ばされ、雨が降れば流され、日照りが続けばただ息絶えるだけの、他の生きものとは一線を画した生命を手に入れた。

 それだけではない。ロゴスの作用の一番の成果は、遺伝子の掟(おきて)から逃れたことである。遺伝子の掟とは、端的に言えば、「産めよ増やせよ」である。しかし人間は、ロゴスの力によって遺伝子の命令を相対化できた。種の保存よりも、個の価値に重きをおけた。

 科学は、ロゴスの輝かしい勝利である。その中でも、分子生物学がこれほどまでに科学の王座を勝ち得たのは、遺伝子がとてもロゴス的に見えたからだ。遺伝子はデジタル信号の配列で、それを書き換えれば、アルゴリズムが変更され、結果も変わる。生命の本質は情報である。ロゴスはそう高らかに宣言した。

 本書の議論の中心命題もそこにある。生命を情報と見過ぎたこと、ロゴス化し過ぎたことが、いったい何をもたらしたか。今、切実に求められるのは、この反省の上にたった、ポストコロナの生命哲学である。

【『ポストコロナの生命哲学』福岡伸一〈ふくおか・しんいち〉、伊藤亜紗〈いとう・あさ〉、藤原辰史〈ふじはら・たつし〉(集英社新書、年)以下同】

 直ぐに読む気が失せた。文章がいい学者といえば福岡伸一池内恵〈いけうち・さとし〉、そして伊藤亜紗の3人を挙げて異論を挟む者はあるまい。その福岡と伊藤が組んだのだから、これはもう読まずにいられない。ところが、である。全く駄目なのだ。福岡の序文はいい。ただし「ピュシス」という言葉に神経を逆撫でされる。まだ、「自然(ピュシス)」であれば我慢できるのだが。日本人なんだから「理窟と自然」で構わないだろう。一々ギリシャ語を引っ張ってくるんじゃねーよ、と言いたくなる。

 伊藤もどこか冴えない。似た者同士を集めて失敗した可能性が高い。ぶつかり合って放たれる火花がないのだ。「僕はこう思うんだよね」「うん、そうそう。私もおんなじ♪」ってな印象が拭えない。ま、殆ど読んでない私が言うのも何だが。

 情報の捉え方も誤っているように思う。情報とは関係性の中で行き交う信号のことで、量子力学においては「重ね合わせ」(量子もつれ)という全く新しい概念が提示された。量子は観測された時にのみ存在するのだ。古典物理学のような軌道がないため、次に現れる場所を特定することは不可能だ。観測による存在確認が情報なのである。

 私としては福岡とは正反対で、むしろ生命を原子や数字と同様に情報として捉えることで、人類の思考は次の段階に進むと考えている。

 大体、日本人なんだからロゴスに抵抗するなら情緒をもって行うべきで(岡潔)、万葉集に倣(なら)うのが正しいあり方だ。

 福岡と伊藤のいい意味ので叙情性が、あまりにも似ているためもつれ合って低い位置に流された感が否めない。

 今、私たちが経験しているのは、ロゴスの裂け目から、漏れ、溢れ、流れ出しているピュシスからのリベンジである。漏れ、溢れ、流れ出ているのは、ウイルスだけではない。私たちの身体が、体液が、ピュシスとして振る舞っているのだ。
 かくして、私たちは元の場所に戻らざるを得なく成る。そして、こう叫ばざるを得ない。自然(ピュシス)の歌を聴け、と。

 だったら句歌を詠(よ)め。自然を称えて舞い踊れ。新しい祭りを創れ。