古本屋の殴り書き

書評と雑文

習慣のわだち/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

Q――あることがまちがっているとわかるとき、そのまちがったことはなくなる、とおっしゃいました。タバコを吸うことがまちがっているのは毎日わかるのですが、やめられません。

 君たちは、親や先生や近所の人や他の誰かにしても、大人たちがタバコを吸っているのを眺めたことがありますか。彼らにはそれが習慣になっているでしょう。来る日も来る日も、年がら年中吸いつづけて、その習慣の奴隷になっています。彼らの多くは、何かの奴隷になることがどんなに愚かしいのかを悟っています。その習慣と闘って、やらないように自分を修練し、がまんして、免れるためにあらゆる方法を試します。しかし、習慣は死んだものであり、自動的になった行為であるので、闘えば闘うほどそれに強みを与えます。しかし、タバコを吸う人が自分の習慣を意識するなら、ポケットに手を入れて、タバコを取り出し、軽く叩き、口に加(ママ)え、火をつけて最初の一服を吸うのに気づくなら――この日課を行うたびに、非難もなく、タバコを吸うとはなんて恐ろしいと言うこともなく、単純に眺めるなら、そのときには、その特定の習慣に新しい活力を与えていないのです。しかし、習慣になってしまったことを本当にやめるには、もっと究明しなくてはなりません。それは、なぜ心は習慣を涵養するのか、つまり、なぜ心は不注意なのかという問題全体に立ち入るということです。君が毎朝、窓の外を見ながら歯磨きをするなら、歯磨きは習慣になります。しかし、いつもよく注意して歯を磨き、そこに注意のすべてを込めるなら、そのときそれは習慣には、思慮もなく繰り返す課業にはなりません。
 実験してごらんなさい。心がどのように習慣によって眠りにつき、そのうえ動揺せずにいることを望むのか、観察してごらんなさい。ほとんどの人の心は、いつも習慣のわだちの中で機能しています。そして、年をとるにつれ、それがひどくなるのです。たぶん君たちは、すでに何十もの習慣を身につけているでしょう。親の言うとおりにしなかったり、お父さんが望むような結婚をしないなら、どうなるだろうと恐れています。それで、心はすでにわだちの中で機能しているのです。そして、わだちの中で機能するとき、君はまだ10歳か15歳なのかもしれないけれども、すでに老け、内的には衰退しかけてます。丈夫な体は持っているかもしれませんが、他には何もありません。体は若くて、まっすぐかもしれません。しかし、心は自分の重みに押しひしがれているのです。
 それで、なぜ心はいつも習慣の中に住み、わだちの中を走るのか、なぜ路面電車のように特定のレールの上を走り、質問し探究することを恐れるのか、この問題全体を理解することがとても重要です。「お父さんがシーク教徒だから、僕もシーク教徒だ。髪を伸ばして、ターバンを巻こう」と言うのなら――探究することもなく、質問することもなく、離れ去るという考えもなくそう言うのなら、そのとき君は機械のようなものなのです。タバコもやはり、君を機械のようにし、習慣の奴隷にします。そして、心が若く、はつらつとして活発で、生き生きとしてくるのは、このすべてを理解するときだけなのです。それゆえに、毎日は新しい一日です。河に映ったあけぼのは、毎朝眺めても喜ばしいものです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年/原書、1964年)】

 半ばまで読んだ。読むのは5回目である。かつて2/3ほどを入力したこともあった。それでも読む度に新たな発見がある。私にとっては「読む」というよりも、クリシュナムルティに「触れる」感覚に近い。意味や概念はどうでもいい。ただ、喉の乾きを潤す清水のようにクリシュナムルティの言葉が私の心を浸す。「読む瞑想」といってよい。

 私が『7つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー著、1996年)を読まない理由は、このテキストの影響が大きい。無論、それ以前に「7つ」という表記に嫌悪感を抱いてはいるが。

7つの習慣』がベストセラーになったことで「習慣本」が次々と刊行された。習慣を変える=人生が充実するとの図式だ。それを否定するつもりはない。習慣とは業(ごう)なのだから。

日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
サンカーラ再考/『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬

 私が仏教徒たり得ないのは戒律に疑問を抱いているためだ。戒律は習慣そのものであり業と化す。戒や律を守れば自己満足を得ることはできても悟りに至ることはない。一定の節度が組織の掟となれば、節度を支える善良な性質が失われる。

「タバコはやめよ」と言わないところにクリシュナムルティの本領がある。あっと言う間に「習慣のわだち」まで掘り下げ、習慣に支配される人生を見据え、機械化する生まで探り当てる。

 仕事・結婚・子育てまでもが習慣に覆われている。「こうあらねばならない」「こうするのが正しい」との思い込みに我々は束縛され、社会に敷かれたレールの上をきちんと歩くことが成功の近道と信じている。

 党の決定に異議を唱える共産党員や、本部の指示に逆らう創価学会員が存在するだろうか? 皆が皆、何らかのレールの上を歩いているのだ。

 習慣のわだちを超えて、全く新しい今日を生きなければ、生きている甲斐がない。