・自由の問題 1
・自由の問題 2
・自由の問題 3
・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
・教育の機能 1
・教育の機能 2
・教育の機能 3
・教育の機能 4
・縁起と人間関係についての考察
・宗教とは何か?
・無垢の自信
・真の学びとは
・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
・時のない状態
・生とは
・習慣のわだち
・生の不思議
Q――僕がどんなに技師になりたくても、父が反対し、助けてくれなければ、どうして工学の勉強ができるのでしょう。
たとえお父さんに家を追い出されても、技師になるという志を貫徹するなら、君は工学を勉強する方法や手段が見つからないと言うのでしょうか。君は誰かに頼みこんだり、友達を頼って行くでしょう。生はとてもふしぎです。何をしたいのかが明確になったとたんに、何かが起きるのです。生が助けに来てくれます。友達、親戚、先生やおばあさん、誰かが助けてくれるのです。しかし、お父さんに家を追い出されそうだからと、やってみるのを恐れているならば、君は迷ってしまいます。恐怖から何かの要求に屈するだけの人たちには、生は決して助けに来ることがありません。しかし、君が、「これが僕の本当にしたいことだから、追求していこう」と言うなら、そのときには奇蹟的なことが起きるのに気づくでしょう。君はお腹を空かせたり、やりとおすために苦労しなくてはならないかもしれません。しかし、君は単なる誰かのまねではなくて、価値ある人間になるでしょう。そこが奇蹟的なのです。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年/原書、1964年)以下同】
「生はとてもふしぎです。何をしたいのかが明確になったとたんに、何かが起きるのです。生が助けに来てくれます」――最も広く知られたクリシュナムルティの言葉である。
仏教で自力と他力が問われるのは多分バラモン教の影響だろう。古代インドを征服したアーリア人(=バラモン)には二元論的志向がある。私はかねがね他力を説く念仏宗を小馬鹿にしてきたが、クリシュナムルティが説く「他性」(アザーネス)を知ってから自力と他力を対抗するものとして捉える思考から離れた。
Q――僕はイスラム教徒です。もし僕が、宗教の伝統に毎日従わないのなら、家から追い出すと親が脅迫するのです。僕はどうするべきでしょう。
イスラム教徒でないみなさんはたぶん質問した人に、家を出るようにと助言しないでしょうか。しかし、君がつけているレッテルに――ヒンドゥー教徒、パルシー教徒、共産主義者、キリスト教徒、あるいは他の何であろうと関係なく、同じことは君にも当てはまるのです。それで、優越感を持ち、調子に乗ってはいけません。親に向かって、その伝統は本当は古い迷信だと言えば、【彼ら】もまた君を家から追い出すかもしれません。
そこで、もしも特定の宗教の中で育てられて、今では古い迷信と思える一定のしきたりでも、それを順守しなければ家を出なくてはならないとお父さんが言うなら、君はどうするでしょう。それは、君がどれだけ懸命に古い迷信に従いたくないかによるでしょう。君は「その問題は大いに考えたが、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒とか、これらのもののどれを名乗ることも無意味だと思う。この理由のために家を出なくてはならないのなら、出ていこう。生が何をもたらしても、たとえ悲惨や死であっても、それに向き合う覚悟はある。なぜならこれが僕の正しいと感じることだし、それを貫くつもりだから」と、そう言えるでしょうか。言えないのなら、君は伝統や集団に飲み込まれるだけでしょう。
少年に対して決断を促すクリシュナムルティの姿勢はどこまでも厳しい。少年からすれば野垂れ死にが待ち受けているようにしか思えないことだろう。だが必ず「何かが起きる」のだ。
生は河の流れに似ている。生きているのは「私」だけではない。隣人も同僚も道ゆく人も、吠える犬も戯れる猫も、花から花へと舞う蝶も、地べたを無心に這う蟻も、バッサリと刈られた生け垣も、そこに絡まるヤブガラシも皆生きているのだ。
大いなる生の河が流れており、私はその一部として存在する。生はダイナミックにつながり、関与し、相互作用を繰り広げている。
君たちは、寺院の鐘が鳴る音に注意を払ったことがありますか。そこで、君たちは何を聴くのでしょう。音でしょうか。音と音の間の静寂でしょうか。もしも静寂がなかったなら、音はあるのでしょうか。そして、もしも静寂を聴いたなら、音はもっと浸透し、違った質にはならないでしょうか。しかし、私たちは何事にもめったに本当の注意を払いませんね。それで、注意を払うとはどういうことかを見出すのが重要だと思います。君たちの先生が数学の問題を解説しているとき、君たちが歴史を読んでいるとき、友だちが君に話をし、物語をしてくれているとき、河の近くにいて、岸に水が打ち寄せるのが聴こえるとき、たいがいはほとんど注意を払いません。そして、もしも注意を払うとはどういうことかを見出せたなら、そのとき、たぶん学びはまったく違う意義を持ち、はるかに楽なものになるでしょう。
「音と音の間の静寂」など聴いたことがない。しかし静寂がなければ音も成り立たない。
何か話してあげましょう。君たちは空間とは何かを知っています。この部屋には空間があります。ここと君たちの宿舎の間、橋と君たちの家の間、河のこちら岸と向こう岸の間の距離――そのすべては空間です。そこで、君の心にも空間があるでしょうか。それとも、混み合っているために、そこにはまったく空間がないのでしょうか。君の心に空間があるなら、そのとき、その空間には静寂があるのです。そして、その静寂から、他のすべてのものは来るのです。というのは、そのとき君は聴くことができるし、がまんなしに注意を払えるからです。それで、心に空間を持つことがとても重要であるわけです。心が混み合いすぎていなくて、絶えず囚われていないなら、そのときには、あの犬が吠えているのも、列車が遠くの橋を渡っている音も聴こえるし、ここで話している人物が言っていることにも、充分に気づいています。そのとき心は生きたものであり、死んではいないのです。
「注意している心」と題した同じ講話である。はたと気づいた。恒常的な不満が私の心の空間を占拠していることに。願望や欲望、功名心、名誉、評価、称賛を求めて満たされることのない心は不満で一杯だ。
この欠落に自分自身の真の姿がある。満たされない自分は分断された自分でもある。大いなる生の流れは見失われ、小さな水溜まりのような自分しか見えない。
心に空間をつくるためには様々なものを捨てなければならない。それはさほど難しいことではない。手放すだけでいいのだから。
・自分という存在は全生命のつながりの中の一部である/『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也