・「戦後日本に欠落したもの」
・戦前戦後の歴史的断絶
・無味乾燥な正論
われわれ日本人は、戦争と敗戦の経験を通して、本当に目覚めたのか。日本が孤立化の道を突き進んだ果てに、奇襲攻撃によって先端を開かざるをえなかった経験の底流にあるものを、正確に解明することができたのか。
【『戦中派の死生観』吉田満〈よしだ・みつる〉(文藝春秋、1980年/文春文庫、1984年/文春学藝ライブラリー、2015年)以下同】
論理で解明することは決してできないだろう。そもそも戦争それ自体が論理的な営みではない。大国が小国を侵略する場合のみ戦争は論理的であり得るのだ。
戦時下の日本が持っていた最も【いまわしき】ものは、おそらく「人間軽視」「人間性否定」だったであろう。したがって今日、その反動のように、「個人の尊重」を誰もが声を大にして叫ぶが、事実、人間は人間として尊重されるようになったであろうか。今の時代は、人間らしい生甲斐をあたえてくれているのだろうか。
人間が大切にされているように見えるのは、人間そのものとして尊重されているのではなく、ただおのれの権力を及ぼすべき対象として、自分の利害にかかわる貴重な要因として重視されているに過ぎないのではないか。
キリスト者が語る「人間軽視」には、やや矛盾を覚える。聖書において人間を重視する記述は皆無である。神の前で卑小な存在に過ぎない。そもそも殺戮を正当化するのがキリスト教の論理である(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。それは「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)にきちんと実行された。
本書が刊行された1980年は、まだまだ日本全体が左傾化していた時代である。政治家が「国益」という言葉を発することもできなかった。保守=右翼と世間は認知した。
読みながら何かすっきりしないものを感じた。次の文章でつかみどころのないものの正体が見えた。
太平洋戦争が日本の恥辱であることを、はっきりと認識する。これが出発点である。
吉田は戦争の被害者であったのだろう。被害者が被害を訴えるのは正当な権利である。私如きが口を差し挟む余地はない。ただし、戦争全体が恥辱となれば話は別である。部分を知っているからといって全体を見通せるわけではないのだ。実際に従軍した者が陥りがちな落とし穴だ。
歴史とは物語である。そして物語とは人の脳が紡ぎ出す妄想なのだ。それゆえ立場によって大東亜戦争は善にも悪にもなり得るのだ。
後知恵バイアスの自覚を欠いた主張は無味乾燥な正論に過ぎない。