古本屋の殴り書き

書評と雑文

戦前戦後の歴史的断絶/『戦中派の死生観』吉田満

・『現人神の創作者たち山本七平

 ・「戦後日本に欠落したもの」
 ・戦前戦後の歴史的断絶
 ・無味乾燥な正論

・『戦艦大和ノ最期吉田満

日本の近代史を学ぶ

 ポツダム宣言受諾によって長い戦争が終り、廃墟と困窮のなかで戦後生活の第一歩を踏み出そうとしたとき、復員兵士も銃後の庶民も、男も女も老いも若きも、戦争にかかわる一切のもの、自分自身を戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを、抹殺したいと願った。そう願うのが当然と思われるほど、戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。
 日本人は「戦争のなかの自分」を抹殺するこの作業を、見事にやりとげた、といっていい。戦後処理と平和への切り換えという難事業がスムーズに運ばれたのは、その一つの成果であった。
 しかし、戦争にかかわる一切のものを抹殺しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも、事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらに戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。要するに、日本人としてのアイデンティティーそのものが、抹殺されたのである。
 戦中の時代は、ある意味では、アイデンティティー過剰の時代であった。日本人および日本の国家という、アイデンティティーの枠だけが強調され、その内容といえば、空虚きわまるものであった。戦争下に横行した精神主義「一億玉砕」に象徴される狂信的愛国心の底には、この実体のない、形骸だけのアイデンティティーがあった。
 日本人、あるいは日本という国の形骸を神聖視することを強要された、息苦しい生活への反動から、8月15日以降はそういう一切のものに拘束されない、「私」の自由な追求が、なにものにも優先する目標となった。日本人としてのアイデンティティーの中身を吟味し直して、とるものはとり、捨てるものは捨て、その実体を一新させる好機であったのに、性急な国民性から、それだけの余裕はなく、アイデンティティーのあること自体が悪の根源であると、結論を飛躍させた。「私」の生活を豊かにし、その幸福を増進するためには、アイデンティティーは無用であるのみならず、障害でさえあるという錯覚から、およそ「公的なもの」のすべて、公的なものへの奉仕、協力、献身は、平和な民主的な生活とは相容れない罪業として、しりぞけられた。
 日本人はごく一部の例外を除き、苦しみながらも自覚し納得して戦争に協力したことは事実であるのに、戦争協力の義務にしばられていた自分は、アイデンティティーの枠を外された戦後の自分とは、縁のない別の人間とされ、戦中から戦後に受けつがれるべき責任は、不問にふされた。戦争責任は正しく究明されることなく、馴れ合いの寛容さのなかに埋没した。
 戦後生活を過りなくスタートするためには、自分という人間の責任の上に経って、あの戦争が自分にとって真実何であったかをまず問い直すべきであり、国民一人一人が太平洋戦争の意味を改めて究明すべきであるのに、外から与えられた民主主義が、問題のすべてを解決してくれるものと、一方向に断定した。
 敗戦によって、いわば自動的に、自分という人間は生れ変わり、あの非合理な戦争に突入した日本人の欠陥も、おのずから修正されるものと、思いこんだ。「自分は、はじめから戦争には批判的だった」「もう戦争は真っ平だ。戦争をひき起こす権力を憎悪する」とさえ主張すれば、それがそのまま平和論になると、タカをくくった。


【『戦中派の死生観』吉田満〈よしだ・みつる〉(文藝春秋、1980年文春文庫、1984年/文春学藝ライブラリー、2015年)】

 山本七平が引用したのはこの中のテキストである。頭から冷や水を掛けられたような思いがした。

 日本が行ったのは文化的・歴史的自殺と言っていいかもしれない。

 GHQによって主要人物は公職追放され、日本文化を伝える書籍は焚書された(『GHQ焚書図書開封 1 米占領軍に消された戦前の日本西尾幹二)。NHKラジオでは「眞相はかうだ」なる番組が日本軍の残虐非道ぶりをこれでもかと放送し続けた。まるで映画をプロデュースするかのように、GHQは戦後日本をデザインしてみせた。

 更に戦後の自民党で活躍した人物は全員アメリカの息が掛かっていた。それどこではない。首相経験者にCIAのスパイ説があるほどだ。つまり戦後の政治家は右も左も売国奴だらけだった。

 私が竹山道雄に共感するのは竹山が従軍していないためかもしれない。一高(東大の前身)教師という竹山の立場が戦争に対して一定の距離を保ち、その視線が客観性につながっているのだ。一方、吉田の場合、当事者である。彼は学徒兵であった。自ずと犠牲の度合いが異なる。ただし近くにいたからわかるという問題ではあるまい。歴史の当事者は歴史を語り得ない。

 いずれにせよ吉田の指摘は日本の民主政の脆弱性を突いており、「日本はなくなつて、その代はわりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう」という三島由紀夫の遺言(「果たし得てゐいない約束――私の中の25年」)が完全に的中した感がある。