古本屋の殴り書き

書評と雑文

馬脚を露わす/『仏陀の真意』企志尚峰

『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

 ・常識の力
 ・馬脚を露わす

・『悟りは3秒あればいい小林正観
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ

ブッダの教えを学ぶ

 仏陀の筏つまり仏陀メソッドには、キーワードがあります。
 それは、念(sati)です。
 satiiとは、今では『気づき』と言う意味ばかり解釈されていますが、本来の意味は『記憶』のことです。
 仏陀の理法を記憶し、心に留めて保持し、忘れずに繰り返し念ずる、このことを念(sati)と言います
 人間は、思考、想念の激流に押し流されていますから、心に留めて保持し忘れずに念じるためには、どうしてもいつも気づいておかなければなりません。
 ですから『気づき』の意味も派生したのですが、本来は『記憶』の意味です。
 念(sati)を記憶と解釈してはじめて、仏陀の筏である三十七菩提分法が繋がりその全貌が見えてきます。

【『仏陀の真意』企志尚峰〈きし・しょうほう〉(幻冬舎、2022年)】

 散々、記憶の束=自我を否定しておきながら、サティ=記憶と解釈する頓珍漢ぶりに驚いた。著者は北伝仏教の匂いがプンプンしており、創価学会員ではないかと邪推したくなるほどだ。

 私は既に仏教にもそれほど興味がないので、訓詁注釈の類いはどうでもよい。だが、サティについて忽(ゆるが)せにすることはできない。

 経典をひも解いてみるとサティという単語は、①瞬間瞬間の気づき・注意・不放逸、②特定の(瞑想)対象・法に心をかける、③単なる記憶作用、といった意味で用いられてきました。

 中国に仏教が伝来した時、サティ(sati, smṛti)には「念」という訳語が当てられました。歴史的経緯を見ていくとややこしいところがあるんですけれど、シルクロードを経由して中国にわたった北伝仏教の教学では、念というキーワードが、記憶するとか、思念するとか、一つの対象を考え続ける、というふうに――いわゆる念仏の念ですよね、阿弥陀仏だったら阿弥陀仏を念じ続ける――対象を想起し続ける、というかたちで解釈されてきました。

 要するに、日本も含めて北伝の仏教では、サティを解釈する時に②と③の意味が強まって、①「瞬間瞬間の気づき(つまり不放逸)」という実践的意味が抜け落ちてしまったんですね。とはいっても、日本語で「正念場」とか「念には念を入れよ」という時の「念」には、①の意味も残っていますよね。面白いなと思います。

佐藤哲朗:ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(1) | DANAnet(ダーナネット) - Part 2

 直前では「いわゆる精神集中的な瞑想ならば他のどんな宗教でも教えていますが、サティの実践・観察の実践ということは、お釈迦さま以外の誰も発見しなかったからです」とも指摘している。佐藤の話は納得がゆく。

 というわけで、144ページで本書を閉じた。どのような事情があるにせよ、蔵(かく)されたものは必ず表れるものだ。結果的にブッダという存在を何かのために利用しているのではないか。

 当初、必読書に入れた。それから教科書本にしたのだが、やっぱり取り消した。ブクログの評価も星四つから三つに変えた。