古本屋の殴り書き

書評と雑文

エスピオナージ四部作/『女性情報部員ダビナ』イーヴリン・アンソニー

・『寒い国から帰ってきたスパイジョン・ル・カレ
・『消されかけた男ブライアン・フリーマントル
『裏切りのノストラダムス』ジョン・ガードナー

 ・エスピオナージ四部作

『ワシントン・スキャンダル』イーヴリン・アンソニー
『裏切りのコードネーム』イーヴリン・アンソニー
『殺意のプログラム』イーヴリン・アンソニー
『緋色の復讐』イーヴリン・アンソニー
『聖ウラジーミルの十字架』イーヴリン・アンソニー

ミステリ&SF

 ササノフが足を止めた。そしてダビナを見下ろして言った。「きみたちの自由を貰(もら)っても、どうしていいか分からないだろう。妻も娘もきっとそうだ。ロシア人は自由になったことがない。幸せになろうと思ったら、強い指導力が必要なんだ。きみは理解できないと思うけどね。きみには分からないだろうけど、ソ連では、お父さんのような人が自分の国の政府を話題にすることなどない。まず考えられないことだ。帝政時代もそうだったし、今もだ」
「どうして心を閉ざすの? おかしいわ。父が食後、政治の話なんかしたからね」
 ササノフは反論した。「そうじゃない。予想していたことだ。政治の話はぼくも嫌いじゃない。でも、手応えがない。ぬるま湯の中の議論だ」
「ええ、理解できませんとも。ついでに言わせてもらえば、言いたいことが怖くて言えないののどこがおもしろいの? あなたもそう思っているくせに。あなたはわざとつむじを曲げているんだわ」二人は道のまん中で向き合っていた。

【『女性情報部員ダビナ』イーヴリン・アンソニー:食野雅子〈めしの・まさこ〉訳(新潮文庫、1990年)以下同】

 女性情報部員ダビナ・シリーズ四部作の第一作。これはオススメだ。文学性の香りを放つエスピオナージ(諜報モノ)である。本作ではイギリスSIS(秘密情報部)となっているがMI6の方がわかりやすいだろう。

 内藤陳〈ないとう・ちん〉の『読まずに死ねるか!』(集英社、1983年)が出たのは私が二十歳(はたち)の頃だった。その前にラドラムの『暗殺者』は読んでいた。『鷲は舞い降りた』の旧版も読んでいたはずだ。「ジャック・ヒギンズを知らない? 死んで欲しいと思う」との文章を読んでニヤリとした憶えがある。私のフランチャイズ(本拠地)は琴似駅札幌市西区)近くにオープンした紀伊國屋書店だった。

 上京してからは、さほどミステリに肩入れすることはなくなっていた。よもやこれほどの秀作シリーズがあったとは。

「きみたちの自由を貰(もら)っても、どうしていいか分からないだろう」――常態化した抑圧は締め付けるサポーターやガードルみたいなものだ。いつしか気にならなくなる。むしろ締め付けがないと不安になるほどだ。完全な不自由は自由を見えなくする。

 別の見方をすれば西側の自由は抑圧からの自由だ。つまり自由は解放を意味する。それは、「何か」からの自由である。これを英語では「liberty」という。勝ち取った自由だ。一方、何でもできる自由は「freedom」と表現する。ソ連の国民はリバティすら求めていないのだからフリーダムなど想像を絶する、というのがササノフの言葉の意味だろう。

「われわれは専制君主がいないとだめなんだ」彼は噛みしめるように言った。「ツァーでもいい。スターリンでもいい。そういう強い人物に守られていなければだめなんだ。そのなかで必要があれば、法律をかいくぐる方法を見つければいい。でもヤコブは、それを受け入れることができなかった」

 この意味で社会主義と宗教団体はよく似ている。そっくりだ。きっと、ある種の専制や独裁を求める大衆心理が存在するのだろう。赤ん坊は抱っこされれば心地よさそうにしている。しかし自我意識が芽生えると抱っこは束縛でしかない。自分の行き先は自分で歩いて決めるのが自立の第一歩である。

 労働者の殆どがサラリーマンで起業家が少ないのも同じ理由だろう。自由競争よりも安定した束縛が望ましいのだ。暗い夜道をクルマで走っているとき先行車両がいれば安心できる。8000メートル級の山を登る時、先頭に立ちたがる人は少ないはずだ。

 真の自由とは、欲望からの自由であり、自我からの自由である。