・『未来を改造する【ザ・パワー】のしくみ 想定の『超』法則』ネヴィル・ゴダード
・『ただ一つの真実、ただ一つの法則:私は在る、私は創造する』エリン・ウェアリー
・『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編
・偶然か、必然か
・〈あなた〉は〈私〉であり、〈私〉は〈あなた〉なのだ
・ただ〈在る〉
「さて――、聖書の話が本当か否かは、この老人は知らない。
だが、聖書では、神は『私は私で在るものである』と言ったという。
『我は、〈在る〉ものなり』と。
この老人は、聖書や歴史の話を続けるつもりなどない。
ここで理解してほしいことは、
神は『私は……』とは決して言わない、ということだ。
だが、おそらくまで知的発達のしていない過去の人間にとっては、
『〈在る〉』という説明だけでは、
まったく何も理解することができなかったのであろう。
神が存在すると人に教えるために、
神は『私はこれこれこのようなものだ』と言わねばならない。
無論、神がそれをわざわざ言ってくれるはずはない。
なぜなら、神はただ〈在る〉だからだ。
目覚めが起きた我々の誰かが、
神という名のついた〈何か〉をまだ知らない誰かに、
その存在を教えるために、
〈彼は言った、『私は〈在る〉、という者だ』と表現したのである。
そこで、『そうか、〈在る〉という存在そのものが神なのか』
なんて理解できた者は、おそらくいなかっただろう。
もしいたら、天才をはるかに超えた天才である。
今でさえ、数える者しかいないのだから」
二人は笑った。
「神は何も言わない。
完全で独りで、完全に自己充足しており、他(幻想)を知らない。
それは絶対無であり絶対有そのものだ。
しかしながら、
まったく表現不可能な領域で、
全ての全てであるその絶対存在、
その完全完璧で唯一無二なる絶対存在そのものに、
〈私〉がある。
喩えるなら、
〈私〉という思考も想念もない〈私〉である。
なんら対象のない、ただ〈私〉と言っていいかもしれない。
〈私〉とは決して言うことない言葉なき〈私〉、想念なき〈私〉だ。
〈私〉とは言えない〈私〉、ただ存在そのもの。
それゆえ、それがその子である〈真我〉=〈神の子〉にもあり、
それがさらに影となって〈心〉にも現れるのである。
それが影である〈私〉、
あなたが感じている〈自己〉という想念である。
それはあまりにも眩しい太陽の光が、
サングラスを通してわずかな輝きしか見せていないようなものである」【『“それ”は在る ある御方と探求者の対話』ヘルメス・J・シャンブ(ナチュラルスピリット、2013年)】
出たぞ、「私は在る」が(笑)。出エジプト記3章14節だ。念のために調べてみた。
最初の「I am that」の「that」は関係代名詞で、後に続く文、「I am」を表しています。
ところがこの「I am」の後ろにあるもう一つの「that」が、重なるために省略されているのです。つまり本当は、"I am that /I am(that)"
なのです。後ろの文の「I am that」は「私は《それ》である」という意味です。ですから《それ》が略されて「I am」となっている部分には、「《それ》と呼ばれているところの私」という意味が隠されているのです。
これらから、"I am that I am" の意味は、次のようになります。
「私は、《それ》と呼ばれているところの者、それである」
「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)もこれを踏襲した言葉なのだろうか? ま、本当のところは、「我思う、ゆえにエゴあり」なんだけどね。
妙な日本語訳が生々しい。「在りて在る」なんて聞くとゾクゾクしてくる(笑)。ラ変の動詞を思い出した。「あり、おり、はべり、いまそかり」。
ただ〈在る〉。〈在りて在る〉。今ここが極まると〈在る〉だけがある。
ヘルメス・J・シャンブが説く無自性は般若経の如し。