古本屋の殴り書き

書評と雑文

聴くという技法/『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル

『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール

 ・気づきはあらゆる現象に先立つ
 ・聴くという技法

『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン
・『過去にも未来にもとらわれない生き方』ステファン・ボディアン
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『つかめないもの』ジョーン・トリフソン
・『われ在り I AM』ジャン・クライン
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

身体革命
悟りとは
必読書 その五

 このアプローチの中心には、それが自己認識に関することであれ、身体の理解に関することであれ、どのように観察するかということ、つまり聴くという技法がある。通常私たちは、観察とは何らかの対象に注意を向けること、集中することだと考えているが、ここでは対象が観察の【なかに】現れるままにする。ここでの「聴くこと」は聴覚に限定されるものではなく、私たちの全体的な感受性を指している。それは私たち本来の状態であって、聴こうと努力することとは違う。むしろ大切なのは、聴いていなかったと気づくことだ。
 無条件に聴くとき、選択せずに聴くとき、私たちは完全に開かれている。それは目的も意図もない開かれたあり方、現れるすべてを無邪気に迎え入れることだ。予断を持たずに事実をありのままに受け入れる科学者のようでもある。
 とはいえ、そうした非個人的な聴き方を私たちがすることはほとんどない。

【『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ナチュラルスピリット、2017年/原書、2014年)】

 眼が集中であるのに対して耳は注意だ。見るのは部分である。そして見ることは、必ず見えないことを含んでいる。前を見れば後ろは見えない。表を見れば裏(陰)は見えない。上を見れば下は見えない。一方、聞くのは全体性である。ここでは最大の臓器である皮膚をも含む。つまり聞くとは、あらゆる振動を感受する営みといえよう。

 武術家が気配を感じるのは皮膚感覚である。眼で見てから動くのでは遅すぎるのだ。これはスポーツ科学の世界でも検証されている。予測をして事前に動いていることがわかっている。

「むしろ大切なのは、聴いていなかったと気づくことだ」という一言が凄い。値千金の重みがある。

 クリシュナムルティが「理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます」と前置きした上で次のように語っている。

「聞く技術」というものがあります。本当に相手の言葉を聞くためには、あらゆる偏見や、前もって公式化されたものや、日常の生活の問題などを捨ててしまうか、脇へ片づけておかなければなりません。心が何でも受け入れられる状態にあるときには、物事はたやすく理解できるものです。あなたの本当の注意力が【何かに】向けられているとき、あなたは【聞いて】います。しかし残念なことに、たいてい私たちは抵抗というスクリーンを通して【聞いて】いるのです。つまり私たちは、宗教的なあるいは精神的な偏見や、心理学的あるいは科学的先入観のほかに、日常の心配事、欲望、恐怖というようなスクリーンに遮(さえぎ)られています。このようにいろいろなものをスクリーンにして、私たちは【聞いて】いるのです。ということは、話されていることを聞いているのではなくて、実際は、自分自身の心の中で立てている騒音や雑音を聞いていることになります。今まで受けてきた教育、偏見、性癖、抵抗などを捨て、言葉上の表現を超え、その奥底にあるものを即時に理解するように【聞くこと】は、とても困難なことです。これこそまさに、現在私たちが直面する困難な問題の一つなのです。

【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

「無条件に聴くとき、選択せずに聴くとき、私たちは完全に開かれている」という言葉が見事なまでにクリシュナムルティと響き合っている。「体の声」に対しても同様である。

 私なりに敷衍(ふえん)すれば、「判断なしに聞く」ことだ。比較や評価を排して、ただ聴くことは意外と難しい。全身を耳にすれば相槌の深さも変わってくる。聴くだけで問題が解決する場合もあるに違いない。

 耳は閉じることがない。つまり世界に向かって常に開かれているのだ。しかも、母胎にいる時から機能し始め、死ぬ時も最後まで聴覚は機能していると言われる。日蓮はこの世界を「耳根(にこん)得道の国」と表現したのも首肯できる。真理の教えを聞いて耳から悟るのだ。