古本屋の殴り書き

書評と雑文

聖なる現実/『つかめないもの』ジョーン・トリフソン

『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル

 ・聖なる現実

悟りとは
必読書リスト その五

 今の瞬間に起こっているこの出来事、自分であるこれ、宇宙全体を包含しているこの無境界性の生き生きとした性質と広がりを感じられるでしょうか?
 突っ走っていくトラック、肌を温める太陽の光、つま先と指の動き、乾いた土地を焼きつくしていく山火事、飢えた子どもたちを両腕に抱えたアフリカ人の母親、マティーニを口に運ぶニューヨークの裕福な投資銀行員、被害者を痛めつける連続殺人者、患者を救う医者、互いに撃ち合う戦場の兵士たち、血管の中で闘い抜く微生物、歩道を横切るアリ、そのアリを踏みつぶす巨大な足、遠い銀河での爆発――こうしたことすべてが、軋轢や不調和があるように見えるときであっても、完璧に同期しながら調和の中で起こっている途切れのないひとつの動きだということを感じられるでしょうか? 自分(この気づいている存在)と現れるすべてのあいだには、どんな境界もないということがわかるでしょうか?
 自分の子どもを優しく世話する母親や、飢えに苦しむ人たちを助けに行く援助隊員や、けがのれない落ち着きと明晰さの生活を送る僧が〈聖なる現実〉であるのと同じように、小児性犯罪者も、連続殺人者も、尿と嘔吐物にまみれて歩道で息絶える酔っぱらいも〈聖なる現実〉です。そして、あらゆるもの(あらゆるかたち、あらゆる感覚、あらゆる知覚、あらゆる考え)の中心には、注意深く調べてみると、まったくどんなものも見いだすことができません。あるのは、あまりに知覚にあってあまりに親密でつかむことができないために、見つけようがないものだけです。
 生の不可思議さは、そのはかなさと実体のなさに密接に結びついています。すべては変化し、現れては消えていくかたちには永続する実体がありません。自分の幼年時代、最高の恋愛、ひどく当惑した瞬間、月面着陸、ホロコースト、9月11日の事件、夜のニュースのストーリー、世界の全歴史、自分が死ぬ瞬間の自分の人生全体――こうしたことすべてが目を(ママ)前を通り過ぎ、夢(あるいは悪夢)のように消えていきます。ただ、どのようなかたちが通り過ぎていくとしても、それが【そのようにあるということ】、それが今あるということは、否定することも疑うこともできません。
 今あるということ(あるいは空っぽさ)は、つかめるような「もの」ではありません。気づきとは、気づきによって明らかになるあらゆるものとは別のものとして「どこか」にある【何か】ではありません。気づきとは、無境界性、単一性、途切れのなさ、愛するものと愛されるものが分離していない無条件の愛を表す別名です。気づきの視点から見ると、現れるどんなものも〈聖なる現実〉です。真の愛は、あらゆるものが今あるとおりにあるその姿に完璧さを見るからです。

【『つかめないもの』ジョーン・トリフソン:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ナチュラルスピリット、2015年/原書、2012年)以下同】

 一度挫けている。「なぜ読めなかったのか?」と驚いたくらいだから、やはり理解には段階があるのだろう。読める段階になれば、読めない段階は理解できない。

 先ほど読んだテキストである。私の内側では「ルワンダ大虐殺」というキーワードが吹き荒れる。抵抗の波が起こり、暴力への志向が沸々と煮えたぎる。

 それでも尚、ジョーン・トリフソンに襟首をつかまれ身動きがままならない。だが、それはマウントではない。私が歩んできた元の道には今直ぐにでも戻ることが可能だ。彼女は何ひとつ強制することなく、促しもしない。

 今、キーボードを叩きながらも私は苦しみにのた打ち回っている。15年間抱えてきた懊悩(おうのう)があっさりと解消した、とはまだ言えない。

 ただ、ジョーン・トリフソンの言葉が光となって、私の心の中の黒い塊(かたまり)に亀裂を入れたのは確かだ。

 そしてこの〈本来の面目〉は、一杯のスープとも、側溝に落ちているタバコの吸い殻とも【別】のものではないのです。

 古閑博丈〈こが・ひろたけ〉の「あとがき」によれば、ジョーン・トリフソンは「目覚めの一撃」(一瞥体験、見性)を経験していないという。ジャン・クラインガンガジのリトリートに参加し、多くのサットサンを経て、いつしか探求の旅が終わっていた。

 実に簡明な言葉で二元性の罠を打ち破っている。結局のところ快不快を超えた地平でのみ非二元の世界が現れるのだろう。