・社会性を欠いた頭のよさ
――お二人にヨーガや明想についての素朴な疑問をガンガンぶつけていくという形式にしたい(後略)
成瀬●僕はわかりやすくなるのであれば、どんな形でもいいですよ。
苫米地●俺もなんでもいいよ。好きなこと聞いて(笑)。
少し前にXで苫米地英人からブロックされていたことが判明した。別にいいけどさ(笑)。私は予(かね)てから苫米地の声の悪さ、話し方の拙さ、社会性のなさを指摘してきた。無論、彼の天才性を認めた上の話である。
公人と思(おぼ)しき著名人がエゴサーチを行って、自分を批判する者をブロックするという所作がみっともない。
成瀬雅春の肛門に関するテキストを調べていた。ついでなので、「社会性を欠いた頭のよさ」について記しておく。
そもそも天才は社会や周囲に気をつかう必要がない。正真正銘の天才であれば幼い頃からチヤホヤされ、上げ膳据え膳で育てられる。こうして社会性が失われるわけだが、致命的なのは他者への共感をも欠いてしまうことだ。つまり、反社会性=サイコパス性が強化される。一番わかりやすいのは天才子役と謳(うた)われた児童が往々にして大成しない事実だ。
社会性がないと薄気味悪い印象を与える。その代表選手が苫米地であり、落合陽一であり、堀江貴文である。成田悠輔の場合、冷めた態度でやや覆い隠せている。
苫米地英人は雑誌サイゾーのオーナーである。聞き手も多分よく知る人物なのだろう。それにしてもである。「先生」と呼ぶ成瀬の前で平然と「俺」という呼称を使っている。俺に対してはお前であり、僕に対しては君、私に対してあなたである。「『俺』という言葉を使った瞬間に相手をお前呼ばわりしていることになる」と高校の時、現代国語の授業で教わった。「本当は『私』が望ましいが、みんなはまだ高校生だから『僕』で許しましょう」とも。それからというもの年長者の前では必ず「僕」を使用し、20代半ばからは「私」で通している。因みに「僕」という言葉を編み出したのは吉田松陰だ。
昨今は、お笑いタレントの影響で言葉が乱れに乱れ切っている。関東の若者でも関西弁を使うようになったのは嘆かわしい限りだ。世も末だと本気で思うぞ。
老人組の天才といえば武田邦彦と髙橋洋一が二大巨頭の感があるが、髙橋は情緒を欠いており、武田は豊かな情緒の持ち主だが「幼稚なところがあり」(本人談)、言葉遣いを誤ってテレビ番組を降板させられている。
成瀬雅春は、「日本のヨーガ行者の事実上のトップであり、瞑想法の達人です」(本書編集者&聞き手)。フーーーム、そうなのか。悟性のきらめきは全く感じられないのだが。ま、苫米地や前田日明〈まえだ・あきら〉が「先生」と呼ぶくらいだから、決して小人物ではないのだろう。