古本屋の殴り書き

書評と雑文

連続性の崩壊/『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』カルロ・ロヴェッリ

『量子革命 アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』マンジット・クマール
『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』ルイーザ・ギルダー
『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
・『すごい物理学入門』カルロ・ロヴェッリ
『すごい物理学講義』カルロ・ロヴェッリ
・『時間は存在しない』カルロ・ロヴェッリ

 ・連続性の崩壊

必読書リスト その三

 電子の一生は、空間内の1本の線ではなく、一つはここ、もう一つはあそこ、というふうに出来事として出現する点線である。出来事はとびとびで連続しておらず、確率的で相対的だ。
 アメリカの宇宙論学者アンソニー・アギーレは『宇宙論的な公案』という著書で、人を不安にさせるこの結論を次のように記している。

 電子とは、わたしたちが測定や観察を【行っているとき】に出現する特殊なタイプの【規則性】である。それは実体というよりも、むしろパターンなのだ。あるいは、【秩序】……。このためわたしたちは、奇妙な場所に辿り着く。わたしたちは物を割ってどんどん小さなかけらにしていく。ところがよく見ると、そのかけらはそこにはない。ただ、かけらの配置があるだけだ。ということは、船や帆やみなさんの爪といった【物】はいったい何なのか。それらはいったい【何】なのだろう。物が、形の形の形の形だとすすると、そして形が秩序であり、その秩序を決めるのがわたしたちだとするならば……それらは、わたしたちと宇宙の関係において、わたしたちと宇宙によって作られたものとしてのみ存在し、出現する。仏陀はそれを「空」(くう)と呼んだことだろう。

 わたしたちは普段の生活で、この世界は堅牢で連続したものだという感じにすっかり慣れ切っているが、じつはそこには現実が粒状であるという事実は反映されていない。しっかりしていると感じるのは、肉眼で巨視的に見ているからだ。白熱球は連続する光ではなく、たくさんのごく小さな光子を発している。小さな規模での現実の世界は連続でも堅牢でもなく、ポツポツとばらけた出来事と、スカスカでてんでんばらばらな相互作用があるだけだ。
 シュレーディンガーは猛然と、量子の非連続性に闘いを挑んだ。ボーアのいう量子の飛躍や、ハイゼンベルクの行列の世界と闘って、古典物理学の直観がもたらす連続的な現実象を守ろうとした。しかし1920年代の衝突から数十年が経つ頃には、そのシュレーディンガーも結局は負けを認めた。前に引用した記述(「波動力学を生み出した人物はほんの一瞬、量子の理論から不連続性を拭い去ることができた、という幻想を抱いた」)に続く彼の言葉はきわめて明快で、決定的である。

 ……粒子を永続的な実体と考えるのではなく、束の間の出来事と考えたほうがよい。それらの出来事は時には鎖をなし、永続的であるかのような幻想を与えるが、それは特別な状況でのことであって、各事例のなかのきわめて短い時間に限られる。(『自然とギリシャ人 科学と人間性』)

【『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』カルロ・ロヴェッリ:冨永星〈とみなが・ほし〉訳(NHK出版、2021年/原書、2020年)】

 まともな出版社であれば、Anthony Aguirre「Cosmological Koans: A Journey to the Heart of Physics」(邦訳未刊、『宇宙論公案 物理学の核心への旅』)と書くところである。NHK出版も堕ちたものだ。

『世界は「関係」でできている』――つまり縁起(えんぎ)である。量子力学が仏教に迫る様は、古い経典をありがたがって読むだけの既成仏教に鞭を振るう。しかも悟りから遠ざかった僧侶どもが語る縁起は概念に過ぎず、量子力学の観測やデータには遠く及ばない。

 映画フィルムを想像してみよう。フィルムは断片的な画像の羅列である。ところが映写機に据えてリールが回転し始めると、そこに映像が現れるのだ。この連続性を我々は人生とも生活(=生命活動)と名づける。我(が)の正体は「連続性という妄想」なのだろう。そう考えると連続性の本質が業(ごう)であることが浮かび上がってくる。

 一般的には同じ過ちを繰り返すことが業と考えられがちだがそうではない。我々は心地よく感じる音楽を繰り返し聴き、感動した本を繰り返し読み、好きな絵画や写真を繰り返し見つめ、好きな食べ物を繰り返し食べ、好きな相手と愛の営みを繰り返すのである。すなわち、快の繰り返しに個性が表れ、私を繰り返すことで我が現れるのだ。

 つまり、「今ここ」にとどまればフィルムの一コマしか存在せず、我は消失する。瞑想(止観)とはリールを止める作業なのだろう。

 粒子・量子を我に置き換えることは可能だろうか? 可能だ。なぜなら我々が考える存在とは、人間を中心とした時間的・空間的スケールの認識であって、138億光年という時空スケールからすれば存在しているとは言い難い。

 もっと卑近な例をあげよう。私を知らない人にとって私は存在しないも同然だ。私を知っている人であっても目の前にいない限りは存在の確認は不可能だ。しばらく連絡が途絶えていた友人の死を後になって知ったという経験は初老になれば誰もがしていることだろう。

「粒子を永続的な実体と考えるのではなく、束の間の出来事と考えたほうがよい」――古人はこれを「草の上の露(つゆ)」と表現した。

 観測という行為が量子に影響を及ぼす。観測が気づきであれば、人類全体の気づきが宇宙に影響を及ぼすことは確実だ。

 私はかねてから人間の生をブラウン運動のように考えてきたが、近頃は化学反応と思うようになりつつある。宇宙創生には決定的な計算が働いていたことだろう。そして人間にとってあまりに都合のよい地球環境を思えば、宇宙の目的は人間意識を生むことにあったと考えてもおかしくない。であれば、宇宙は人間のために創られたのだ。これを「人間原理」という。

 そろそろ、「悟りの時代」が開くはずだ。既に悟った人々が各所に出現している。