・『ソロ 単独登攀者 山野井泰史』丸山直樹
・『凍(とう)』沢木耕太郎
・『ポーカー・フェース』沢木耕太郎
・『白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻』NHK取材班
・『垂直の記憶 岩と雪の7章』山野井泰史
・『アルピニズムと死 僕が登り続けてこられた理由』山野井泰史
・『いのち五分五分』山野井孝有
・世界最強ソロクライマー"山野井泰史"50年の軌跡 伝説のクライミンング人生を世界一詳しく解説!!【ゆっくり解説】
・『アート・オブ・フリーダム 稀代のクライマー、ヴォイテク・クルティカの登攀と人生』ベルナデット・マクドナルド
実は、神長氏が私を山野井さんと会わせたがったのには理由があった。神長氏には、まだ1冊も自分の著作を持っていない山野井さんに本を出してもらおうというプランがあり、もし私が山野井さんに関心を抱けば、その本の巻末に解説風のエッセイを書いてもらいたいという思惑があったのだ。
いま思えば、かりにどのような思惑があったにしろ、そのとき神長氏が、ためらう私の背中をひと押ししてくれなければ、それから2年半後に『凍』という作品が生み出されることはなかったとだけは言える。そして、神長氏の「山野井君は沢木さんの読者です」という言葉は、会わせたいための「仲人口」ではなかった。ボクシングの好きな山野井さんは、スポーツものを中心にして、私の作品をよく読んでくれていた。【『銀河を渡る』沢木耕太郎〈さわき・こうたろう〉(新潮社、2018年)以下同】
神長幹雄〈かみなが・みきお〉編『山は輝いていた 登る表現者たち十三人の断章』で、山野井泰史〈やまのい・やすし〉のデビュー作のタイトルを沢木耕太郎がつけたことを知った。地元の図書館にあったので直ぐ借りてきた。「白鬚橋から」(06・12)だけを読んだ。
私は長く亀戸(かめいど)に住んでいたので白鬚橋(しらひげばし)までは5kmほどの距離である。尚、「ひげ」の字は髭(口ひげ)ではなく鬚(顎ひげ)が正しい。東京スカイツリーに一番近いのが言問橋(ことといばし)で、その北側に位置するのが白鬚橋だ。
ギャチュンカンで壮絶な下山をした後、山野井は白鬚橋付近の病院に夫人の妙子と一緒に入院したようだ。沢木はここから山野井夫妻と親交を深める。
そんなある日、神長氏から正式に「山野井君の本」の巻末に載せるエッセイを書いてもらえないかと頼まれた。一応、山野井さんの原稿を読ませてもらうと、これが面白い。専門的すぎるところがなくはなかったが、文章は簡潔で正確だった。内容は、これまでに登ったヒマラヤの山々についての登山記録であり、そのあいだに日常にまつわる短いエッセイがはさみこまれるという構成になっていた。
読み終えて、その本が山野井さんの人柄と同じように背筋の通った清潔な本であることがわかった。そこに私のような者のエッセイを収録するのは、この本を汚すことになる。山野井さんの文章だけで1冊の本として充分に成立しているから、私の文章などを入れるということは考えない方がいい。
そう告げると、神長氏はなかばそれを「仕事をしたくないための言い逃れ」だと思いつつも、正論なので受け入れてくれた。
プロの作家が、しかも売れっ子の作家がここまで言うところに沢木の矜持(きょうじ)が窺える。書籍の解説は陳腐なものが多く、解説者の名前で売り上げを伸ばそうとする出版社の魂胆が透けて見えることが多い。
神長は『単独主義』というタイトルを用意していた。しかし、妙子が「泰史に『主義』という言葉は合わない」と反対する。
「何かいいタイトルはありませんかね」
山野井さんが冗談めかして私に訊ねてきた。
そこで、その場は、にわかづくりの「タイトル検討会議」のようなものになってしまった。(中略)
そうしてみんなで二字の言葉を探しているうちに、どこからかポロリと「記憶」という言葉が出てきた。
「何とかの記憶、っていうのは、僕にはちょっとかっこよすぎるけど、いいですね」
山野井さんが言った。
山野井と別れた後も沢木は考え続けた。
――何の記憶、だろう……。
そのとき、ふと、「垂直」という言葉が脳裏をよぎった。
何とタイトルと副題は沢木が考えたものだった。『垂直の記憶 岩と雪の7章』はこうして生まれた。もちろん、「必読書」である。
私はスポンサーと無縁な山野井を沢木耕太郎が描いてくれたことに心底からの感謝を覚えた。沢木が本物のクライマーに光を当ててくれたのだ。沢木は見事なまでに山野井という一隅を照らした。
山野井夫妻は夫婦の一つの理想像を示していると私は感じる。妙子は9歳年長だが本当に素敵な女性である。