・『生体の歪みを正す 橋本敬三・論想集』橋本敬三
・『からだの設計にミスはない 操体の原理』橋本敬三
・『万病を治せる妙療法 操体法』橋本敬三
・ヨギとは
・『ヨガによる健康の秘訣 足の裏から頭の先までの完全健康』沖正弘
・『ヨガによる病気の治し方 病気を活用した自己改造法』沖正弘
・『ヨガの喜び』沖正弘
「ヨギ」――私にははじめての言葉だ。彼の説明によると、ヨギとは、ヨガを専門に研究したり、実行する人のことで、「ヨガ」というのは5000年くらいまえに起こった、インドの古い心身訓練法とのことだ。ヨギの中には、長年の訓練によって、ときどき特殊な能力の発達した者がいて、心臓を自由に止めたり動かしたりできる。中には冬眠状態にはいって、1カ月ぐらい生き埋めになり、また生きかえる者さえある。
【『沖ヨガ入門 精神が肉体を自由にできる』沖正弘〈おき・まさひろ〉(季節社、2019年/『ヨガの楽園 秘境インド探検記』カッパ・ブックス、1962年/『ヨガ入門 精神が肉体を自由にできる』カッパ・ブックス、1971年)以下同】
表紙見返しに星新一の推薦文がある(うちこのヨガ日記)。私が読んだのも『ヨガ入門 精神が肉体を自由にできる』だ。
沖正弘は昭和26年2月にユネスコの招聘で二度目のインド訪問。「平和建設国際奉仕団」という社会事業団に協力した。世界30ヶ国から1~2人ずつ参加したという。「第二次世界大戦中、参謀本部の特別諜報員としての必要上、東西医療法と各種教宗派の修行法の特別訓練を受け、モンゴル、中国、インド、アラビア各地に赴いた。戦後も探究心から中国や東南アジアに渡って医学と宗教を学ぶ」(Wikipedia)という恐ろしい経歴は伏せられている。
二度目のインド訪問でスイス人のフランソワ・シェンクと出会ったことがきっかけでヨガに目覚めた。
「ヨガっていうのは、どうもぼくには納得がいかない。あんなことが、なにになるのかね。」と私は言った。私はヨガだけではなく、この7カ月にわたるインドでの生活の中で、インド人の生活態度、ことにその無気力さに、いやき(ママ)がさしていたのだ。「だいたい、インド人の考えたヨガなんか、信用できるものか。」そう思っていた私に、彼はあわれむように言った。
「ぼくだって、はじめはそう思ったさ。しかし、ヨガといっても、見せ物用のヨガと、人間の可能性を追求するほんとうのヨガがある。きみの見たヨガは、どうやら見せ物用だ。あれは、ほとんどインチキだよ。まあ、この本を読んでみたまえ。」と、イギリス人オーネスト・ウッド(元マドラス大学教授)の『ヨガ』という本を示した。その本にはつぎのような一節があった。
〈ヨガがなんであるかは、自分でやってみなければ、わからない。ヨガを行なっている者の中には、ついにその目的を見きわめることができず、転落していく者がいる。金に困ったり、名声を博したいために、身につけた能力を見せ物にする者たちがそれだ。もっとひどいのになると、ヨガとはまったく関係のない手品を、ヨガの名をかりて売っている者さえある。〉
見世物用のヨガについては本書を参照せよ。これは宗教にも適用できそうだ。例えば眼の前で空中浮遊する肉体を見れば誰もが度肝を抜かれることだろう。だが、そこには何の宗教性もない。しかも浮いてるだけで飛んでるわけではないのだ。そんなものに驚く前に、鳥が空を飛ぶことにもっと驚くべきだろう。
幽霊は不思議だ。しかし、「眼が見える」こと自体を不思議に思う人は少ない。
読後、「なるほどねえ。どうやらにせものをほんものを混同していたようだな。」とつぶやくと、それまで沈黙していたデリー大学哲学科出身で、私たちと同室のインド青年が、「釈迦もガンジーも、ヨガであそこまで達したのだ。釈迦ムニの『ムニ』は、ヨギという意味なのだ。」と言った。
これは初耳である。調べてみたが判明せず。「インドで、山林にあって沈黙の行をする人の称」(goo人名事典)とあり、コトバンクも同一の記述だ。
尚、ヨガについては、「思想的に特徴はないが、修行法としてきわめて重要。ウパニシャッド以降、ほぼインド全般に共通する修行法となった」(木村泰賢全集)との指摘が目を引いた。
昭和27年(1952年)時点でヨーロッパでは禅とヨガブームが知識人の間を席巻していたと書かれている。
沖正弘の動画を見たが、悟りのきらめきは感じられなかった。どちらかというと戸塚宏〈とつか・ひろし〉っぽい印象を受けた。