・『歴史の起源と目標』カール・ヤスパース
・『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
・『新版 分裂病と人類』中井久夫
・手引き
・唯識における意識
・認識と存在
・「我々は意識を持つ自動人形である」
・『イーリアス』に意識はなかった
・右脳に囁きかける神々の声はどこに消えたのか?
・意思決定そのものがストレスになる
・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
・『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
・『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『2か月で人生が変わる 右脳革命』ネドじゅん
意思決定(「意思」という言葉から、意識を暗示する痕跡をすべて取り除きたいが)こそ、まさにストレスであるということが、今やはっきりしている。もしネズミが、餌や水を得ようとするたびに通電された格子板を通らなければならないとしたら、そのネズミには潰瘍ができる。ネズミに電気ショックを与えるだけでは、そうはならない。格子板を通るべきか否か、葛藤して躊躇したり、意思決定のストレスを感じたりしなければ、潰瘍はできない。装置に入れられた2匹のサルのうち、片方のサルがレバーを押すことができるようになっていて、少なくとも20秒に1回レバーを押さなければ2匹のサルの足に定期的な電気ショックが与えられる、という実験をすると、意思決定をするサルには3~4週間で潰瘍ができるが、もう1匹の同じようにショックを与えられるサルにはできない。
【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2005年/原書、1976年)】
電気ショックといえば次の実験も忘れ難い。
・他者の苦痛に対するラットの情動的反応/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
それにしても西洋人の残酷さには毎度のことながら驚かされる。DNAにサディズムが書き込まれているのかもしれない。「一寸の虫にも五分の魂」を見出す我々とは住む世界が違うようだ。
意思決定とは価値基準に照らした判断である。たとえそれが感情でなされたとしても脳は正当化の理論を構築する。意思決定を繰り返すことで脳は「正しさ」を確認し、補強し、正義の城を築いてゆく。傍(はた)から見ると間違っていることも多いのだが(笑)。
ひょっとすると、「自分が正しい」ことをああでもないこうでもないと言い繕(つくろ)うのが「言葉の役割」なのかもしれない。いと悲し。
上記テキストでは、意思決定をするサルが責任を感じているように見える。私は直ぐさま別の例えが浮かんだ。野球チームの監督と選手の違いだ。戦術を考えるのは監督の役目だ。選手は場面に応じて眼の前のボールに反応するだけだ。時折、サインプレーが繰り広げられるが、サインに応じた動きを求められるだけのことで、戦況に応じた判断を下すわけではない。
ネドじゅんの考えでは、縄文時代は全員が選手であったが、現代社会は個々人に監督の役割が押し付けられている。デフレ不況に入ってから少し経った頃、やたらと「生き残りを懸けた」とか「サバイバル」なる言葉が巷間(こうかん)に溢(あふ)れた。「下流」が強く意識された時代背景があった。
意思決定そのものがストレスになるのは、競争を強(し)いられているためだろう。
「選択の自由」は案外、不自由なのかもしれない。
