古本屋の殴り書き

書評と雑文

枢軸時代/『歴史の起源と目標』カール・ヤスパース

『歴史とは何か』E・H・カー
『歴史とはなにか』岡田英弘
『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 ・目次
 ・枢軸時代
 ・軸の時代の教師たち

『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

世界史の教科書
必読書リスト その四

 歴史はいかなる側面からも完結しえない。歴史はひとつの自己具足的な全体像として、まとまった形ではとらえられないのである。(序言)

【『歴史の起源と目標』カール・ヤスパース:重田英世〈しげた・えいせい〉訳(『ワイド版世界の大思想 第3期 11 ヤスパース 歴史の起源と目標/理性と実存/哲学の小さな学校』河出書房新社、2010年/理想社、1964年河出書房、1968年河出書房新社、1972年/原書、1949年)以下同】

 カール・ヤスパース(1883-1969年)はもっと昔の人だと勝手に思い込んでいた。生年が同じ人物に鳩山一郎志賀直哉高村光太郎北一輝などがいる。1883年は明治16年

「世界史は中国世界と地中海世界から誕生した」(『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統岡田英弘)。一方、インドには歴史文化が存在しなかった(同書)。

 歴史哲学は西洋においては、その基礎をキリスト教信仰にもっている。アウグスチヌスからヘーゲルに至る宏壮な作品に示されている通り、この信仰は歴史の中に神の業をみた。神の啓示の営みが、歴史の決定的な切れ目を現わすものであった。(中略)
 しかしキリスト教の信仰は、【ひとつの】信仰ではあるが人類の信仰ではない。

「人類の信仰ではない」と言い切るところに知性がきらめく。日本に置き換えると「天皇陛下人間宣言」くらいの重みがある言葉だ。西欧を世界の一地域として捉える視点の高さを理解できる西欧人が果たしてどの程度いたか気になるところだ。

 この軸は、それ以降人間が人間として存在しうるもの、すなわち高度の人間存在が生まれた時点、人間存在の形成において強烈きわまりない生産性が実現された時点でもあるであろう。人間存在の形成は、特定の信仰内容にかかわりなく、西洋でもアジアでもあらゆる人間にとっても、経験的に必然的で理解可能な認識とはならないが、それでも経験的理解に基づいて納得しうるような様式で行なわれたものであろう。その結果あらゆる民族にとって、歴史的自覚という一の共通な枠が生じたものであろう。この世界史の軸は、はっきりいって紀元前500年頃、800年から200年の間に発生した精神的過程にあると思われる。そこに最も深い歴史の切れ目がある。われわれが今日に至るまで、そのような人間として生きてきたところのその人間が発生したのである。この時代が要するに《枢軸時代》と呼ばれるべきものである。

 枢軸時代は人類を二分心(ジュリアン・ジェインズ)から画(かく)する一大変化であった。陸続と出現した天才たちが時代を牽引(けんいん)したが、同時代の大多数は理解が及ばなかったに違いない。軸はできたものの車輪が回るまでには時間を要したことだろう。

 まして情報伝達の速度が遅い時代である。紙も普及していなかったし、文字を書ける人も少なかった。そう考えると車輪が本格的に回り始めたのは近代であったのかもしれない。

 人類全体の歴史からすれば、新石器革命~枢軸時代~活版印刷の発明(1450年)~産業革命(18世紀半ば-19世紀)などは指呼の間といってよかろう。

 すなわち、世界史はまだまだ始まったばかりであり、指数関数的な技術の飛躍に目を奪われると長大な石器時代を見落としてしまう。

 人類史を出来事や技術革新ではなく、「意識の変容」で捉えた抽象度の高さを仰ぐ。ところがその後の歴史は戦争と奪い合いに終始し、停滞し切っている。軸(スポーク)はできたものの、いまだに車輪は【回っていない】のだろう。