古本屋の殴り書き

書評と雑文とChatGPTと

古代ギリシアの数学者/『数学する身体』森田真生

 ・知る前と知った後で変わるものは何か?
 ・リソースとノイズのはっきりした境界はない
 ・松岡正剛に対する嫌悪感
 ・古代ギリシアの数学者

 図を前にして数学に耽(ふけ)る古代ギリシアの数学者を想像してみよう。彼は、どのようにして思考をしているだろうか。その姿は現代の数学者とは随分違う。
 そもそも紙も鉛筆もなければ黒板もチョークもない。定かなことはわからないが、砂や木のようなものが、図を描くための媒体だっただろうと言われている。そこに描かれた図を前にして、彼らは誰かに語りかけるか、あるいは小声で、もしくは大きな声で、何かをブツブツしゃべりながら数学をしていたはずである。
 古代ギリシア時代と言えば、文字以前の「声の文化」から、少しずつ「文字の文化」へと移行を始めた時期である。確かに数学者たちも文字を使って研究の内容を記録するようになっており、だからこそ私たちはいまでもその遺産に触れることができるのだが、それでもまだまだ言葉は書かれる以上に、語られるものであった。

【『数学する身体』森田真生〈もりた・まさお〉(新潮社、2015年新潮文庫、2018年)】

 アフリカの校舎なき学校を思い出した。

 私の世代(1963年生まれ)は小学校の入学と同時に学習机を買い与えられた子供が多かった。我が家は違ったが子供部屋も個室になりつつあった。勉強のためのお膳立てが施され、卓袱台(ちゃぶだい)で勉強する人は少なかったように思う。

 そして我々は机がないと勉強することができなくなった。

 筆記試験を通して、勉強は「書くこと」を意味するようになった。この流れは多分現在でも変わっていないことだろう。学問の最終形は論文だ。

 古代の知性を想像することは難しい。少なくとも国家規模のコミュニティに至らなければ、本格的な洞察や研究、そして証明は難しいように思える。

 それでも尚、人類は学び続けてきたのだろう。

 その原動力が好奇心であったことに疑問の余地はない。「なぜ?」との疑問符が立ち上がった瞬間に人間の心は「!」という答えの発見に向かうのだ。

「文字の文化」とは、すなわち「知識の外部化」である。文字は人を離れて飛翔する。更には時代をも軽々と乗り越えてしまう。我々は書籍を通して、ソクラテスブッダ、はたまた孔子にもアクセスすることが可能なのだ。

 その一方で、記憶と生身で学問に取り組む姿勢を失った。『数学する身体』というタイトルに込められた思いは予想を超えた深さがある。