・近代日本を呪縛する水戸学
・『戦中派の死生観』吉田満
・『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
戦時中のさまざまな手記、また戦没学生の手紙などを読むと、その背後にあるものは、自分ではどうにもできないある種の「呪縛」である。その呪縛に、それを呪縛と感じないほどに拘束され切っている者はむしろ少なく、それに抵抗を感じ、何やら強い矛盾を感じつつもそれをどうすることもできず、肯定もしきれず、抵抗しつつそれを脱し得ないという姿である。もしこのとき、その人びとが、これ朱舜水〈しゅしゅんすい〉という一中国人がもたらし、徳川幕府が官学とした儒学的正統主義と日本の伝統とが習合して出来た一思想、日本思想史の数多い思想の中の一思想で朱子学の亜種ともいえる思想にすぎないと把握できたら、その瞬間にこの呪縛は消え、一思想としてこれを検討し得たはずである。そして検討した上で、あくまでも自分はこの思想を選択すると言うのなら、それはそれでよいし、それを脱却してこれに反対する思想的根拠を自らの内に形成し保持し得るなら、それもそれでよい。それならば討論が可能である。しかし、そのいずれかが明確にできたという証拠は、上記の記録の中に見出すことはできず、そのためそこに生ずるのは諦念と詠嘆である。
【『現人神の創作者たち』山本七平〈やまもと・しちへい〉(文藝春秋、1983年/文藝春秋、1997年/ちくま文庫、2007年)】
冒頭2段落目のテキストである。続いて引用される吉田満のテキストが更に頭を殴りつけてくる。ワンツーパンチが日本人の急所を突く。「尊王(尊皇)の作為」が国体の概念を揺るがす。「現人神(あらひとがみ)の創作者」がいたとすれば、明治維新の起爆剤となった尊王攘夷思想や大東亜戦争における国体護持が、壮大なフィクションになりはしないだろうか?
まだ50ページしか読んでないのだが必読書とした。私は山本七平の文体が苦手で数冊開いてはみたものの、殆ど読み通すことができなかった。そんな経験からすると、本書は文体からして全く違うように見受けられた。行間から真剣な厳しさが立ち上がってくる。
日本人にとっては壮絶な自問自答である。それを可能にしたのは山本がキリスト者の視点を持ち得たためか。
本書の後で小室本を読み直す必要がある。かつて、「天皇陛下を現人神(あらひとがみ)にしたのは何と憲法制定のためであった」と書いた(伊藤博文の慧眼~憲法と天皇)。小室の指摘は本書に呼応するものだったのか? 小室を出版界に引き上げたのは山本である。そして福島出身の小室が本書を無視することはあり得ないのだ。
あらゆるエートスには呪縛がある。
・エートスの語源/『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子
宗教をタブー(禁忌)が支えているように、エートスも禁止事項にこそ特徴が表れるのではないか。わずか数十年で道徳からエートスまでを改めることができるのだろうか? まったくもって不思議でならない。