古本屋の殴り書き

書評と雑文

二・二六事件前夜の正確な情況/『重光・東郷とその時代』岡崎久彦

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 ・溥儀の評価
 ・二・二六事件前夜の正確な情況

二・二六事件
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日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 どうして、世の中がこのように右傾化したのだろうか。ここで、もう一度日本の右翼思想のよって起った源を探る前に、政治外交からしばらく離れて、当時の経済社会情勢を一瞥(いちべつ)する必要がある。
 なぜかというと、戦前の日本の対外拡張政策は、世界大恐慌と世界経済ブロック化のために、資源の乏しい日本としてはやむにやまれぬものであり、また、軍の過激化は、徴兵の源である農村のあまりの窮乏ぶりを見るに見かねて、青年将校たちが社会の革新、革命を志向したからだという説が戦中戦後を通じて定説のように行われているからである。
 前者の議論は、経済の実態から見てどうも無理がある。
 たしかに世界大恐慌の影響は惨憺たるものであって、昭和6(1931)年には、国民所得も株価も昭和元年に比べて30%下がり、物価も35%低落している。しかし満州事変の引き金は、本来それとは無関係である張学良(ちょうがくりょう)の反日政策による在満日本人の不安であり、世界恐慌をその原因にもってくるのは無理がある。
 じつは、日本の景気の復興ぶりは欧米に比べると際立って早い。生産、国民所得は早くも昭和7年から回復しだし、昭和8、9年には恐慌前の水準に戻り、その後も成長を続けている。はかばかしい回復もないまま、1937年に再度の恐慌を迎えるアメリカとは大きな違いである。
 これを実現したのは高橋財政といってよい。高橋是清(たかはしこれきよ)は金の輸出を再禁止して為替(かわせ)を低落させ、赤字公債によって財政を拡大させた。これは不況対策としてケインズ理論の正攻法である。ケインズの「一般理論」の発表は1936年であるから、高橋はケインズにまさる先覚者としての評価を受けている。
 もっともケインズ自身、自分の理論は皆がそう思っていることを理論化しただけだといっているように、事態があれほどひどくなれば、だれの目にも、とくに高橋のような老練な財政家の目には、解決策は自(おの)ずから見えてくるものなのであろう。
 ただし理論的にはわかっても、これを迅速果敢に実施するのはいつの世でも容易ではない。この点、日本には怪我の功名があった。もともと日本経済は第一次世界大戦の不況から完全には脱しきれず、アメリカのようにバブルから転落したわけではなかったので大恐慌自体の影響は欧米より小さかったのであるが、その影響が増幅されたのは、高い円価格のままでの金解禁が重なったからである。したがって金の輸出を再禁止するだけでも経済破綻を軽減する効果があった。
 当時はまだケインズ以前であり、財政金融政策による景気対策はどの国でもそんなに大きな関心事ではなかったが、金の大量流出は、国富(こくふ)という意味で、国家的な危機として捉えられ、迅速に抜本的な措置をとることに誰も依存はなかった。また、前内閣が金解禁のために緊縮財政を推進したことは政友・民政両党間の大きな政争点となっていたので、政友会内閣となれば方向の転換は当然のことであった。
 そこで日本は世界各国がまだどうしてよいのかわからずモタモタしているなかで、いち早く国内では赤字公債による景気刺激策をとり、国外では円安による輸出攻勢をかけたのである。
 米国ではスムート・ホーリー法が高関税をかけたのは1930年、英連邦がオタワ会議でブロック化したのは1932年であり、その効果で日本の輸出が打撃を受けるはずの時期に日本の輸出は順調に伸びている。しかも世界全体の輸出が激減しているなかで、日本だけが他の国の分を食って伸びているのである。英連邦側からいわせれば、ブロック化はむしろ日本の輸出攻勢に対抗するためだったといってよい。
 ちなみに、戦後日本の生活水準が欧米並みになるまでつきまという日本のソーシャル・ダンピング、つまり低賃金による過当競争という対日批判が起るのはこの時期からである。
 リース・ロスの訪日、訪中も、中国市場からボイコットされた日本商品が英連邦に流れ込むのが迷惑なので、日中関係をなんとか取りもって改善させようという英国らしい現実的な打算から出たものであった。
 したがって、世界ブロック化で生存を脅かされた日本による現状打破というのは経済の実態からは無理がある。もっと漠然に、日本が鎖国している間に欧米が世界の植民地を独占してしまったことに対するリゼントメント(憤懣)と考えたほうがよいのであろう。それは日本のアジア解放の主義主張、そしてのちには独伊と組んでの「もてる国」に対する「もたざる国」の対決の思想に繋がってくるものである。

 他方、農村の窮乏は事実である。このときの日本の景気回復の特異な点は、生産や国民所得の回復と比べて物価の回復が著しく遅れ、とくにそれが農産品において甚だしかったことである。
 不況下で一次産品が値下がりしたうえに、とくに日本の主要生産品の米と繭(まゆ)の値下がりがひどかった。米は、それまでの日本の植民地経営がようやく実り、台湾、朝鮮の米が低価格で大量に入ってきた。また繭については、アメリカの不況と人工繊維の開発が重なり、需要が激減した。
 昭和10年になっても、日本の農産品の価格は2~3割落ち込んだままだった。生産品の低価格が何年も続いたのではたまったものではない。農家一戸(いっこ)当りの負債は2000円(いまなら600万円くらい)に達し、借金で首の回らない農村では、一家心中が続出し、娘は売られ、少しの凶作で学童は欠食状態となった。
 農漁村から徴兵されてきた兵隊たちと日夜接触する立場にある小隊長、中隊長などの青年将校が、兵士たちの家族の実情を聞くにつけて、社会の矛盾に悲憤慷慨(ひふんこうがい)し、体制の革新を求める思想に走ったのも無理はなかったといえる。
 その中心となった思想は、当時の呼び方にしたがって革新思想と呼ぶのが正しいのであろう。冷戦時代は、左翼が革新と呼ばれ、親社会主義陣営であったので、右翼とは峻別されていた。しかしすでに述べたようにソ連共産主義も滅んだ現在、その区別はあまり意味がない。むしろ、既存の体制に不満で、暴力によってでもこれを改革しようという点では、保守思想に対する革新思想として一括するほうが実体(ママ)に沿っている。またげんに、当時は、左翼も右翼も紙一重であったというのが実情だった。
 戦前の日本の革新思想をそれが打破したいと思っている対象にしたがって整理してみると、まず(一)西欧帝国主義に対するものとしてのアジア主義であり、(二)それがのちには「もてる国」の現状維持志向に対するものとしての日独伊枢軸諸国の現状打破思想となる。そして社会主義思想の影響を色濃く受けて、(三)自由主義経済下の資本による搾取に対するものとしての平等主義であり、(四)議会民主主義に対するものとしての革新派による独裁政治であった。

【『重光・東郷とその時代』岡崎久彦〈おかざき・ひさひこ〉(PHP研究所、2001年/PHP文庫、2003年)】

 二・二六事件前夜の正確な情況である。

 戦後日本の方向性を決定づけたのはGHQの占領であった。真珠湾攻撃から始まった日米戦争は4年間で終止符を打った。ところがGHQの占領期間は敗戦の1945年から1952年の7年間に渡った。帳尻が合わない。この間、様々なミッションが遂行されたが、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)に基づく国家神道の廃止、戦前に発行された書籍の焚書(ふんしょ)、20万人以上に及ぶ公職追放財閥解体教育基本法の改正、共産党の容認、労働運動推進、メディア統制、そして日本国憲法の制定などが挙げられる。

 しかしながら私は、それ以前に二・二六事件の評価が定まっていないことが国家の足腰を弱めたと考えている。その意味からも本テキストは重要だ。ただし、岡崎は以下の事実に触れていない。

 血腥(なまぐさ)い事件の背景には長く続いた不況があった。第一次世界大戦後、日本は戦勝国の一員として束の間好況に沸(わ)いたが、1920年の戦後恐慌(大正9年)~関東大震災(1923年/大正12年)~昭和金融恐慌(1927年/昭和2年)と立て続けに不況の波が押し寄せた。そこへ世界恐慌(1929年/昭和4年)の大波が襲い掛かる。しかも最悪のタイミングで翌1930年(昭和5年)から1934年(昭和9年)にかけて東北が冷害による大凶作に見舞われる(昭和東北大飢饉)。東北や長野県では娘の身売りが相次いだ。

二・二六事件と共産主義の親和性

 当時、陸軍には陸大卒エリートに偏重する人事がまかり通っていた。陸軍士官学校を出ただけでは出世に限界があった。将来の見通しが暗い大尉・中尉クラスが農村出身者の悲劇を耳にすれば、「斬奸」(ざんかん)に傾くのは必定であろう。しかも北一輝〈きた・いっき〉や西田税〈にしだ・みつぎ〉の思想を胸いっぱいに呼吸した。あとは行動するのみである。

 昭和に入り政党政治に倦(う)んでいた国民は軍人を支持した。五・一五事件昭和7年/1932年)は公判が始まると国民から同情が寄せられた。それどころか称賛する声も挙がった。

 二・二六事件を起こした青年将校に同調する陸軍首脳も多かった。そもそも天皇陛下が赫怒されるまで全員が静観していたのだ。ここで大御心(おおみごころ)を見失っていた万民の姿が露呈するのである。

 岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉が陸軍首脳を批判している。

 一番態度が悪いのが首脳部ですよ。これはみなさんもよく注意して下さいよ、「その精神は諒とするも行動が悪い」と言っているのです。行動が悪いものは精神も悪いので、これが日本人の一つの欠点だと思うのです。だから、「お前行動も悪い、したがって精神も悪い」、こういかなければならないところを、みんなが「精神は可なるも行為が悪い」と言う。こんなバカな話があろうかというのですよ。これが三月事件、10月事件が二・二六事件に至った大きな原因であったわけですよ。

『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 二・二六事件を客観的に捉えたのは小室直樹くらいであろう。

 そもそも(※二・二六事件の)決行部隊と正規軍との関係はいかなるものであったろうか。
 名前こそ“決行部隊”などとはいっても、勝手に軍隊を動かして、政府高官を殺し、首都の要衝を占領しているのである。いま仮に正当性の問題をしばらく措(お)いても、決行部隊は、反乱軍か、さもなくんば、革命軍(「維新軍」といってもよい)である。正規軍(政府軍)とは敵味方の関係である。生命がけで戦って、決行部隊が負ければ反乱軍として討伐され、勝てば、革命軍として新しい政府をつくる。
 これ以外の論理は、全くありえない。
 日本でも外国でも、これ以外の論理は、あったためしがない。その、ありうるはずのないことが、昭和11年2月26日の夜に起きた。

『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹

 かようなまでに我が国には原理が存在しないのである。清濁併せ呑んで、なあなあで済ませるのが日本流といってよい。WGIPも結局、それを受け入れる素地があったと考えられよう。世界情勢に振り回され、時流に流され、右顧左眄(うこさべん)する民族が確たる国家を築けるはずもない。

 戦前から戦後にわたる近代史を見渡せば、「なし崩し」的に政策が決定され、国家的問題(拉致問題や教科書問題など)が放置され、経済一辺倒で進んできた事実がありありと映る。

 致命的なのは住民自治の意識が欠落しており、いかなる問題があろうとお上に依存する精神性が蔓延している。かつては頼みとなったやくざ者も現在は暴対法で締め上げられ、堅気(かたぎ)相手の振り込め詐欺に手を出す始末である。極道も地に堕ちたものだ。埼玉県川口市クルド人問題や、長らく続く沖縄の基地反対運動などは住民が自治体を守ることができなかった惨状を示している。

 その意味ではアメリカのような草の根民主主義が日本には見当たらない。