・『サレンダー 自分を明け渡し、人生の流れに身を任せる』マイケル・A・シンガー
・『なまけ者のさとり方』タデウス・ゴラス
・エックハルト・トール
・『「今この瞬間」への旅 スピリチュアルな目覚めへのクリアー・ガイダンス』レナード・ジェイコブソン:今西礼子訳
・他者に巻き込まれる
・無意識の信念
・『沈黙からの言葉 スピリチュアルな目覚めへの招待状』レナード・ジェイコブソン
・『この瞬間を抱きしめる 目覚めた人生の生き方』レナード・ジェイコブソン
・DVD『イエスの解放』レナード・ジェイコブソン
・悟りとは
他者に巻き込まれる――完全な目覚めへの第四の障害
目覚めているとは、過去と未来から解放され、【今この瞬間】の中に解き放たれているということです。それはまた、誰かに巻き込まれず、自分自身を取り戻していることでもあります。もしわたしがあなたに巻き込まれていたら、わたしは誰であるかをどうやって知ることができるでしょうか。あなたがわたしに巻き込まれていたら、あなたは誰であるかをどうやって知ることができるでしょうか。目覚めるためには、互いに巻き込まれず、自分自身を解き放たなければなりません。
他者に巻き込まれるとはどういうことでしょう。
あなたに愛されたい、受け容れられたいなら、わたしはあなたに巻き込まれています。また、あなたに認められたい、同意してほしい、あなたに受け容れてもらいたくて機嫌をとる、あなたの批判、不満を恐れる、あなたに否定されることを恐れるなら、わたしはあなたに巻き込まれています。あなたを操りコントロールする、あなたの責任を負っている、あなたを批判し、非難し、恨むなら、わたしはあなたに巻き込まれているのです。
わたしたちは、絶望的なほど互いに巻き込まれています。これが現実です。絶望的なほどに、互いの中に自分自身を見失っているのです。
あなたのパワーを明け渡す
誰かがあなたのことを好いている、認めている、受け容れているなら、あなたはいい気分になります。気持ちが高揚し、自分に価値があると感じます。ところが、誰かがあなたを嫌うか、認めない、受け容れないならあなたは落ち込み、自分に価値がないと感じます。このようにして、あなたは自分自身のすべてのパワーを明け渡しているのです。あなたは絶望的なほどに、他者に巻き込まれています。
他者に巻き込まれることからの解放
人間関係の絡まり合いから解放されるためには、自分が他者に巻き込まれるすべての行為に意識的でなければならないのです。
他者に愛されること、受け容れられること、認められることを求めていると気づいたら、その時あなたは自分のパワーを相手に明け渡しいると認識し、そのことを打ち明けましょう。受け容れられたいために誰かの機嫌をとっていると気づいたら、批判せずにそれを認め、打ち明けるのです。
怒りを面白おかしく責任をもって表現すれば、あなたがパワーを取り戻す解放のパワーとなるはずです。
【『「今この瞬間」への旅 スピリチュアルな目覚めへの明確な手引き 新訳版』レナード・ジェイコブソン:(ナチュラルスピリット、2010年『「今この瞬間」への旅 スピリチュアルな目覚めへのクリアー・ガイダンス』/新訳版、2022年/原書、2007年)】
斬新さとわかりやすさが同居する稀有(けう)な文章だ。
外界の出来事がきっかけとなって内面の感情が波立つ。SNS時代となった途端、「承認欲求」なるキーワードが出回るようになった。ま、「いいね、リツイート、リプライ」資本主義みたいなものだ。
昔、「ポケベルが鳴らなくて」(1993年)という悲しい歌があったのを思い出す。やや、鳴り過ぎ状態であった私は、「静かでいいではないか」と思った。
承認欲求は10歳までに誰もが経験する通路で、「親に認められたい」との本能に基づいている。可愛がられないと暴力までの距離が短くなる。子供にとっては生存を左右する問題だ。
こうした生の傾向性が実は生涯を貫く。学校の成績、受験、就職、出世競争を通して我々は死ぬまで競争に駆り立てられる。比較-判定が自分の社会的価値を決定するのだ。本当はそうではないのだが。
話を戻そう。外界の出来事は縁(えん)=きっかけである。もう一歩突っ込むと縁とは「外的条件」を意味する。生命の反応は「因➡縁➡果➡報」と進む。これ、何が凄いかというと、外界に何が起ころうとも「因果は自分持ち」なのだ。仏教者であっても中々気づかない一点である。生命状態は十界と現れるわけだが、その十界の因果は生命の内部に埋め込まれたもので、外的条件に振り回される様相を「縁に紛動(ふんどう)される」と表現する。仏教で「魔」や「鬼」(き)を恐れよと教えたのも心構えを説いたものだ(鬼=ウイルス説もある)。
群れ社会は「他者に巻き込まれる」ことを原動力にしている。チームワークや犠牲に美徳を見出す心性は本能に近い。ひょっとしてジェイコブソンは愛情や信頼をも否定しているのだろうか?――御意。その通りだ。
「他者に巻き込まれる」とは自分の内部に潜む依存性を明らかにした驚くべき卓見なのだ。ここに至ると八苦の中の愛別離苦(あいべつりく)と怨憎会苦(おんぞうえく)が片方の側面しか明らかにしていないことまで浮かんでくる。なぜなら、「嫌いな人と別れることが楽」とはならないし、「愛好する人と出会うことが楽」とも言い切れないからだ。愛憎は紙一重である。時に相手を支配下に置こうとする邪悪な人間も珍しくはない。
結局、レナード・ジェイコブソンは「水瓶座の時代に進化する人間の在り方」を教えているのだろう。
他者から自分自身を解放するために、次の言葉を受け入れる意思が必要です。
「わたしはわたしのために【ここ】に在る、あなたのためでなく!」
「居る」ではなく「在る」という部分に注目せよ。存在の理由ではなく、現象の根拠である。
私は家や職場で雑草を取る機会が多いのだが、雑草はつくづく不思議な存在だ。雑草は「ただ在る」存在だ。踏んでも、抜いても決して文句を言うことがない。彼らは恨みすら持たないことだろう。そうして沈黙の中に沈みながら、営々と土壌改良に着手し、微生物を育み、太陽光から土を守るのだ。
植物にも微かな意識が存在する可能性はあるが、その生態を見れば常に瞑想状態にあると思えてならない。
悟りは縁起の次元を変えるのだろう。ともすると我々は人間関係や能力・技術・評価・人間性などで計測可能な取引行為を行っているわけだが、悟ってしまえば「他者に巻き込まれる」ことがなくなるのだろう。
ここで、ふと思い出したのだが、ブッダ滅後に経典を編む際、十大弟子の多くはアーナンダ(阿難)がアルハット(阿羅漢果)に至っていないことを指摘して、アーナンダの主導を認めなかった。これを、「アーナンダに巻き込まれる」姿と捉えることができよう。悟りの意外な陥穽(かんせい)である。そんな些細なところに「小乗」と蔑まれる要因が垣間見える。
黄金(こがね)はドブの中にあっても輝きがくすむことはない。
