古本屋の殴り書き

書評と雑文

悟ると過去が消える/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『無(最高の状態)』鈴木祐
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん

『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ

 ・西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」
 ・悟ると過去が消える

『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは
必読書リスト その五

 解放が起こってからの1年、個人としての物語を事実だと思うことが、しだいになくなっていきました。そのプロセスは1年ほどかかって完了したように思います。過去を手放すというのはじつに気持ちがよくて、すごく素晴らしい軽やかさを感じました。素晴らしいことなんです。人はいつも記憶を失くす心配をしていますが、僕はこう思っています。「お願いだから、できるだけ早く記憶を失くしてよ。記憶なんてくだらないよ」。記憶がないというのは最高のことです。
 口先だけでこんなことを言う人たちがいます。
「存在するのは今だけだ。過去は存在しない。未来も存在しない」
 ですがそういう人たちは、それが事実だということを知りません。でもゆっくりと、過去は存在しないということがほんとうに腑に落ちていきます。子どものころの話をしてるとしたら、それは実際のところは今この瞬間にでっちあげられている空想なんです。その空想にはまったく何の現実性もありません。今があって、目の前のものごとは今起こっています。それ以外はただの観念、空想にすぎないんです。現在の経験というものは明確で明白です。なのに人は、何かが過去に起こったとか、何かが未来に起こるだろうというように思い込み続けています。でも実際には、過去に何かが起こったこともなければ、未来に何かが起こることもありえません。唯一存在しているのは、(指をパチンと鳴らす)。瞬間瞬間に気づいているということはよく言われます。今気づいている。今、今、と。でも実際に存在している今は、たったひとつだけです。
 かなり長いこと、自分に個人としての過去があるという感覚が消えていました。個人としての過去というものが落ちてなくなるというのは、ほんとうにすごく気持ちいいことです。過去や未来について空想に耽ることがなくなりました。近くが少し変化したような気がします。脳の活動は普通は過去や未来についての空想にいつでも駆りだされているわけですが、それが止まると、実際の五感からの情報にもっと注意が向くようです。知覚、聴覚、触覚、味覚といったことに。これについては神秘といったようなことは何もなくて、実際に今起こっていることから注意が逸れ続けることが少なくなるというだけの話です。明瞭さがただ増すんです。今というものが、以前よりも少し明るく、はっきり、鮮やかになります。(D・A)

【『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ブイツーソリューション、2014年)】

 フーーーム……(沈黙1分経過)。先日、久方ぶりに帰省し、実家や親類宅で散々昔話に興じてきたところだ。

 本格的に振り返ってみよう。42歳の時、『ホテル・ルワンダ』を見た。45歳でレヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』を読んだ。私にとっては「中年の危機」そのものだった。1年後(46歳)にクリシュナムルティと出会い、危機は克服した。ほぼ同時期に小野田寛郎を読んだ。その後、菅沼光弘を読み漁った。そして東日本大震災直後の天皇陛下のビデオメッセージを拝して私は保守派となった。日本の近代史に関する書籍を数百冊紐解き、歴史の無知から脱出した。

 これが、ないというのか?(笑) へえー、としか言いようがない。私は悟りと歴史を同時期から学んだため妙な矛盾を抱え込む羽目となった。なぜなら、私から離脱するためには国家からも離れる必要があるからだ。私も国家も我(が)である。私の延長線上に国家があるのだ。近代史を学べば学ぶほど欧米に対する敵愾心(てきがいしん)が燃え盛り、ソ連の侵攻と暴虐非道、そしてシベリア抑留に対する憤激の念が止むことはなかった。

 記憶喪失と悟りについては以前書いた。

記憶喪失と悟り/『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介

 でもまあ、外的要因による喪失と、内部のマインド操作で消去するのとでは違いがあるのだろう。

 単純に考えてみよう。物理的な意味で過去は存在しない。だって持ってこれないからね。「写真があるぞ」という声が聞こえてくるが、写真もいつかはなくなる。っていうか、もし私が死んだとして、100万年後に私が生きていた確かな証拠は存在するだろうか? 1億年後でもいい。そう考えると今生きている我々自体が草の上の露のように儚(はかな)い存在であることがわかる。

 次に現実的な生きる姿勢として考えてみよう。過去を振り返っている時、過去を悔いている時、過去に苛(さいな)まれている時、我々は現在を見失っている。後ろを見ていれば前は見えない。ちょっとつまずけば転んでしまうことだろう。

 歴史はどうか? 歴史とは須(すべから)く国家や民族の歴史である。特に日本の近代史の場合、黒船来航から大東亜戦争に至る日米100年戦争の恨みを払拭したい感情に囚(とら)われがちだ。やがては戦争を望む気持ちが芽生え始める。戦争で失ったものは戦争で取り返す他ないからだ。

 過去そのものは妄想ではない。ただ、感情で脚色を施された過去データ(記憶)は自我によってでっち上げられた妄想である可能性が高い。

 仏典に「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(心地観経)とある。説得力のある教えだが、未だ妄想から離れていないレベルであることが見て取れる。因果といったところで結局は現在の瞬間に収まるのだから。

 人格は幼少期における心の傷によって形成されると私は考えている。世界から否定された経験が一生の性格を決定づける。性格とはスタイルであり、生のパターンでもある。我々の人生はその傷を癒(いや)す過程でしかない。それほどまでに過去に束縛されているのだ。

 悩み、苦しみの原因は過去にある。昨日から離れ、明日を捨て去れば、生はスキップを踏むように軽やかになることだろう。

あなたは「過去のコピー」にすぎない/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ