古本屋の殴り書き

書評と雑文

鹿島神流の国井善弥/『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀

『雷電本紀』飯嶋和一
『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル
『鉄人を創る肥田式強健術』高木一行
・『肥田式強健術2 中心力を究める!』高木一行
『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀
『武術を語る 身体を通しての「学び」の原点』甲野善紀

 ・武術の達人
 ・鹿島神流の国井善弥

『惣角流浪』今野敏
『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽
『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』池月映
・『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義津本陽
『深淵の色は 佐川幸義伝』津本陽
『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』木村達雄
・『佐川幸義 神業の合気 力を超える奇跡の技法』『月刊秘伝』編集部編
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也
『肚 人間の重心』 カールフリート・デュルクハイム

身体革命
必読書リスト その四

 そうすると、私自身の周囲を見回してみた限りでは、私が、本当に凄い技ができたたに違いない達人が昔は存在したと思うことは、私個人の単なる信仰でしかないのか、ということを考えさせられたわけです。とにかく実証してくれる人がいなかったわけですから。
 それでも何かあったんじゃないかと思っている内に、ある時、【鹿島神流(かしましんりゅう)の国井善弥〈くにい・ぜんや〉】という人の噂を聴いたのです。この先生は道之〈みちゆき〉が号で、国井道之という名前でも知られていますけど、この人がすごく使えたらしいという。そして調べてみるとどうやら間違いなく、亡くなる最晩年まで他流他武道を相手に身体を張って凄い技を見せられているんですね。昭和41年に亡くなってますから、ちょうど私がそういうことに興味を持つわずか数年前まで生きていらした方です。とにかく凄いエピソードがたくさんあったのです。
 なにしろ、この国井先生は現実に【柔道が来ようが、空手が来ようが、ボクシングが来ようが、相撲が来ようが、皆、受けて立った】のです。しかも、亡くなる本当に直前ぐらいまで。

【『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀〈こうの・よしのり〉(PHP文庫、2002年/PHP研究所、1995年『武術の新・人間学 失われた日本人の知恵とは』改題)以下同】

 Wikipediaには「退役後、東京都北区滝野川に道場を開き、『道場破り歓迎』の看板を掲げ『他流試合勝手たるべきこと』とし、幾多の他流試合を相手の望む通りの条件で受けながらも勝ち続け、生涯不敗であったという」とある。不思議なことに武田惣角〈たけだ・そうかく〉と同じく福島県出身である(※いわき市会津藩ではないことを今知った)。

下江秀太郎 1848-1904年
武田惣角 1859-1943年
西郷四郎 1866-1922年
本部朝基 1870-1944年
前田光世 1878-1941年
植芝盛平 1883-1969年
肥田春充 1883-1956年
村井顕八 1889-?
国井善弥 1894-1966年
黒田泰治 1897-1976年
佐川幸義 1902-1998年
塩田剛三 1915-1994年
木村政彦 1917-1993年
大山倍達 1923-1994年
初見良昭 1931-

 終戦が1945年(昭和20年)である。昭和期にこれほどの武術家が存在したのが壮観である。いずれも巨星と言い得る人物だ。

(※口が悪く、嫌われていた)けれどこの先生は現代剣道を救ったんですよ。というのは、【戦後、GHQによって剣道が全面禁止にされたことがあった】んです。そこで、「いや、剣道とはそんなものじゃない」ということを、理屈で言っても駄目だから、なんとか事実でGHQに理解させようという目的で、米国のそうした武器術のエキスパートと、向こうは真剣で、こっちは木刀で、しかも相手を傷つけずに、完璧に負けを認めさせることによって、日本武道の奥深さを知らせようと、百の説法よりもそれがいいだろうということになったんです。
 そうした人選をしたら、そこまで、日本の武道界の命運全部を託せるのは、やっぱり国井善弥しかいないということで、当時、50代でしたけれど国井先生が選ばれたそうです。それで相手は米国きっての銃剣術のエキスパートで、レスリングも強い。国井先生が選ばれた理由は素手の格闘に持ち込まれても大丈夫な者でなければならないということもあったようです。
 国井先生を選んだ時、剣道家達は、さも悔しそうに、国井善弥という名を出したそうです。なにしろいつも剣道の悪口を言われていましたからね。できるならばこの名を口にしたくなかったよですが、絶対負けられないとなると、やっぱりこの人物しかいないというこでね。
 なにしろ相手はレスリングもやっていて、場合によれば、取っ組み合いになるかもしれんということを考えた時、組んでも良し、突いてきても良し、組みつこうが、武器で来ようが、どうでも受けて、絶対負けない、日本の代表として勝負を託せるのは国井善弥しかいない、ということだったそうです。
 なにしろ負けるわけにいかないのですから。これはちょうど明治維新の時でも、いざとなれば、それこそ牢獄のなかに入っている囚人でも出してきて、使わなきゃならなかったという状況とよく似てますね。
 それで立ち会った結果は圧倒的な強さで、相手を傷つけずしかも感服させて勝負を決めたようです。
 そういうことで、本来なら、剣道界は国井先生を恩人として感謝したいところなんでしょうが、その後も、ますます剣道を罵倒されいましたから、表だって感謝の意を表わすこともできなかったのでしょう。

 私は以下のページで国井を知った。

GHQの「日本無力化政策」を阻止した日本男児…国井善弥 | オピニオンの「ビューポイント」
GHQが禁じたのは学校剣道のみだった:GHQ占領下における剣道

 その点国井先生の場合は、【全て相手の条件を呑んで立った】ようです。たとえば柔道家が来て、「一応、突き蹴りはなしだ」となれば、「分かった」と相手にあわせた形で……。
 ともすると古流系統の人達は、「いまは本当に身体の小さい者が大きな者を制するのに有効な、当て身技とか逆技(ぎゃくわざ)とか、そういうのが全部封じられているから柔道に負けるんだ」と言いますが、そしてたしかにそういう見方もできるかと思いますが、国井先生の場合は、相手方のルールを呑んで立ちあったようです。
 それでもほとんどの場合、圧倒的な勝ちを制せられたようですから、やっぱりそこには、動きの質の違いというものがあったのだと思います。残念ながら、私は、直接国井先生には、お目に掛かれなかったんですけど、こうしたエピソードを、直に見聞きした方々から聞き、「これは本当に使えた人だな」ということで、2年ほど、その国井先生の最晩年の門人だった野口弘行〈のぐち・ひろゆき〉先生という方について私としてはずいぶん情熱を傾けて、稽古をしました。

 日本武術は剣術が基本となっている。すなわち剣の速度に対応し得る技でなければならない。柔術はもともと鎧をまとった兵士が闘う技術で、骨を折り、関節を破壊し、絞め技で息の根を止めるところに目的があるのだ。その意味から申せば全ての武術が殺法といってよい。

 でも相手に大怪我をさせるというようなことは、なかったみたいですね。【受身のとれない者をいじめるような、そんなことは決してなかった】そうです。
 ただ圧倒的に、「どうだっ」という感じがあったようです。

 本当に子供みたいに純粋な気持ちで武術を愛したのだろう。

 身長は低かったんですけどね。本当にがっしりした身体で、武の技に対しては、情熱のかたまりのような方だったようです。

 達人と呼ばれる人は殆どが小さい。「柔よく剛を制す」というのが真の技である。現代のスポーツ柔道は剛(パワー)に傾いており、桜庭和志が旗揚げしたQUINTETや、ブラジリアン柔術の方が面白いと思う。大体、武道を名乗りながら、礼もしない内にガッツポーズをとるような振る舞いが浅ましい。

 日本に連綿と伝わった技と強さが今失われつつある。