・『雷電本紀』飯嶋和一
・『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル
・『鉄人を創る肥田式強健術』高木一行
・『肥田式強健術2 中心力を究める!』高木一行
・『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀
・『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀
・『惣角流浪』今野敏
・『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』池月映
・『合気の発見 会津秘伝 武田惣角の奇跡』池月映
・『合気の創始者武田惣角 会津が生んだ近代最強の武術家とその生涯』池月映
・『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義』津本陽
・『深淵の色は 佐川幸義伝』津本陽
・『剣豪夜話』津本陽
・『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』木村達雄
・『佐川幸義 神業の合気 力を超える奇跡の技法』『月刊秘伝』編集部編
・『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也
昭和3年8月、北海道旭川市三条通り、秋田屋旅館に、小柄(こがら)な老人が宿泊した。身長150センチ足らず、痩身(そうしん)で、年齢は70歳というが、10歳は若く見え、眼光が異様に鋭い。
彼は大東流合気柔術家、武田惣角〈たけだ・そうかく〉であった。惣角は全国の武道家のあいだに英名をとどろかせている達人であった。
だが売名に意を用いず、自ら道場を構え、門人を養成する気がない異色の人物である。彼は国内各地を放浪し、足をとどめた地で合気の術を教える。
教授料は2円であった。
秋田屋旅館の主人は、惣角の名を聞き、おそれいって丁重にもてなしをした。北海道では惣角は開拓時代の英雄として、知られていた。明治35年に、彼は単独で全道5万人の無頼漢に立ちむかったのである。【『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽〈つもと・よう〉(実業之日本社、1987年/新潮文庫、1991年/双葉文庫、2010年/実業之日本社文庫、2018年)以下同】
【武田惣角】
冒頭のテキストである。私は旭川出身なので否応なく引き込まれた。昭和2年の中卒男子の給与が30~35円である(明治~令和 値段史)。同年の米価が1俵(60kg)10.85円だった(米価の変遷 - Wikipedia)。
「大東流は合気術だ。合気術の基礎は、剣の修業からはじまるのだ。剣は武芸のうちでもっとも動きが早い。ピカリと光れば首が飛ぶのだ。一瞬に生死の分れる勝負に、虚心に立ちむかえる覚悟ができたなら、槍薙刀(やりなぎなた)、棒などあらゆる武器が自在に扱えるようになる。打ち物の修業を極めたなら、無刀取り、すなわち真剣白刃取(しらはと)りの秘法に達するようになる。これがすなわち合気術だ。つまり合気は剣の修業の過程において養うべき術だよ」
つまり総合格闘技なのだ。明治前後の戦乱期には名だたる剣術家が綺羅星の如く生まれた。
武田惣角がくぐり抜けてきた修羅場は現代人の想像を軽々と超える。多分50人前後を殺している。全員が悪党であるが、40人ほどの相手を殺傷した際には心臓の近くを鶴嘴(つるはし)で刺され、瀕死の重傷を負ったこともあった。
武田惣角に師事した植芝盛平〈うえしば・もりへい〉が後に合気道を立ち上げたが、合気術からすれば講道館柔道のようなものである。
大東流で色々調べていたところ、総合格闘技のリングで呆気なく敗れた人物を見た。やはり武田惣角や佐川幸義の合気は別物なのだろう。
日本の物作りの伝統と技の探究はどこか相通じているように思えてならない。