・『雷電本紀』飯嶋和一
・『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル
・『鉄人を創る肥田式強健術』高木一行
・『肥田式強健術2 中心力を究める!』高木一行
・『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀
・『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀
・『惣角流浪』今野敏
・身長147cmの巨人
・橋と手裏剣
・丸茂組を単独で制圧
・『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』池月映
・『合気の発見 会津秘伝 武田惣角の奇跡』池月映
・『合気の創始者武田惣角 会津が生んだ近代最強の武術家とその生涯』池月映
・『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義』津本陽
・『深淵の色は 佐川幸義伝』津本陽
・『剣豪夜話』津本陽
・『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』木村達雄
・『佐川幸義 神業の合気 力を超える奇跡の技法』『月刊秘伝』編集部編
・『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也
修業の旅をつづけている者は、さまざまな苦労をかさねている。たとえば橋である。明治初年は、どこの町村でも橋の袂(たもと)に番人を置き、5厘(りん)、1銭(せん)の通行料をとっていた。
つねに所持金に窮している武者修業者は、川を渡る橋銭がないため、泳ぎ渡るよりほかはない。
また雨が降ると道は泥濘(ぬかるみ)となり、脛(すね)を没することもめずらしくはなかった。朝宿を出るとき、新しい草鞋(わらじ)をはき、ほかに2足の草鞋を腰に吊(つる)すが、日に10里を歩けば草鞋はすべてすりきれてしまう。【『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽〈つもと・よう〉(実業之日本社、1987年/新潮文庫、1991年/双葉文庫、2010年/実業之日本社文庫、2018年)以下同】
こういう生活感のある記述が大変参考になる。橋で通行料を取られることを知らなかった。細川たかしのヒット曲「矢切の渡し」(1983年)は知っていたが、渡し舟のことを理解したのはずっと後のことだ。江戸以前の時代では川が人々の移動を関所のように阻んでいた事実に初めて気づいた。
草鞋が擦り切れた後はどうしたのだろう? きっと裸足で歩いたのだろう。台湾原住民は日本が統治してからも裸足で過ごしていた。彼らで構成されていた高砂義勇隊の一人が南方の激戦地で任務を帯びた際、軍靴を脱ぐことを上官に請う場面を読んだ覚えがある。アスファルトでなければ人間の足は耐えることができるように進化したのだろう。
武者修業者で、中途に挫折(ざせつ)して帰郷するのは、手裏剣術の下手な者にきまっていた。諸国を放浪するうちには、飢えに迫られる日がかならずくる。そういうとき山に入り、兎や狸などをめがけ手裏剣を投げつけても当らず、くさむらなどに落ちこんで、探してもみあたらないとなれば困窮する。ついには手持ちの手裏剣をすべて失い、餓死しかねない窮境へ陥ってやむなく帰郷するのである。
これまた同様で当時の風俗がくっきりと見えてくる。手裏剣が球ではなく剣であるのも日本刀文化が窺える。
投擲(とうてき)は大半の球技の主要な動作である。投げる行為は人体にとって最も自然な動きなのだろう。運動量が少ない野球にこれほど人気があるのも、そこに「投げる」快感を感じているためだろう。