古本屋の殴り書き

書評と雑文

「私は在る」(I Am)その四/『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編

『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『ただ一つの真実、ただ一つの法則:私は在る、私は創造する』エリン・ウェアリー
「私は在る(I Am)」の原典/『未来を改造する【ザ・パワー】のしくみ 想定の『超』法則』ネヴィル・ゴダード

 ・「私は在る」(I Am)その一
 ・「私は在る」(I Am)その二
 ・「私は在る」(I Am)その三
 ・「私は在る」(I Am)その四
 ・「私は在る」(I Am)その五

『“それ”は在る ある御方と探求者の対話』ヘルメス・J・シャンブ

悟りとは
必読書リスト その五

 存在するすべては【意識】です。その原初の状態では――それを、【現実】と呼んでもいいし、【絶対存在】と呼んでもいいし、【無】と呼んでもいいですが――何かに気づくべき原因がありません。ですから、【休息している意識】は、【それ自身】に気づいていません。それは、突然の感覚、「私は在る」が起こるときのみ、【それ自身】に気づくようになります。「私は在る」とは、気づいているという非個人的感覚です。そして、そのとき、【休息している意識は活動している意識】となり、【潜在的エネルギー】は実際のエネルギーになるのです。それらは別々のものではありません。この【潜在的エネルギー】からは、分離したものは何も生じないのです。
【活動している意識は、休息している意識】と別個のものではありません。【休息している意識が活動している意識】となるその瞬間を、科学者ならビッグバンと呼び、神秘家から気づきが突然起こると言うでしょう。現実について話そうとすると、ともすれば人は【現実】を観念に変えてしまいます。言葉しての【現実】は観念です。【現実】としての【現実】は、人が考えることのできる何かではありません。あなた自身が【現実】であるとき、あなたは【現実】について話すことはできません。ですから、あなたが何かをしたり考えたりする瞬間、それは現象の内にあり、したがってそれは観念です。(CS22-23)

【『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編:高木悠鼓〈たかき・ゆうこ〉訳(ナチュラルスピリット、2010年)】

 意識が世界を認識する。それを認識こそ世界であると捉えたのが唯識だ。ラメッシの指摘は更なるコペルニクス的展開へと飛翔する。認識する主体の意識が「すべてである」というのだ。ここに至ると主観と客観の相違は消え去る。世界は意識に収まり、意識は世界へ浸透する。

「鐘(かね)が鳴るかや 撞木(しゅもく)が鳴るか 鐘と撞木の間(あい)が鳴る」という禅の言葉がある。音が意識なのだろう。多分。何かと何かが出合い、接触するところに、音という存在が立ち上がるのだ。しかも音の実体は空気の振動でしかない。私という存在は、37兆個(※少し前までは60兆個と考えられていた)の細胞とDNAと様々な分子と微生物叢が織り成す「振動」なのだろう。

「観念」とは思考である。「我思う、故に我あり」(ルネ・デカルト)。

(西欧における中世から近世への思想の転換)
 第一に、神中心から人間中心の世界観へと転換した。このことはすでにルネサンスに顕著であるが、哲学の世界では、17世紀にデカルトが現れ、「我思う故に我あり」と主張して、根本原理を神から人間の世界へと引き下ろした。また、世俗からの超越に優位を置く価値観から世俗性に重点が移された。例えば、宗教改革においても修道院キリスト教から世俗のキリスト教へという傾向が顕著にうかがわれる。

【『日本仏教史 思想史としてのアプローチ末木文美士

 近代世界における変化というのは、人間の自己意識の発展にありますが、これはデカルトに始まると言えるでしょう。

【『歴史とは何かE・H・カー

 西洋史の文脈だとデカルトは重要な意義を持つが、東洋ではまるでインパクトがない。諸行無常諸法無我を説いたブッダは2000年も先んじて、それを否定していた。

 ラテン語の「コギト・エルゴ・スム」は知っていたが、英語だと「I think, therefore I am」か。日本人の私には「I am」が軽く感じられてしようがない。我(が)の強さを嫌う日本文化のせいか。西洋の個人は「individual」を志向している(柳父章)。

 ラメッシが説くのは「我気づく、故に我あり」ではない。「我気づく、故に世界あり」でもない。それは、「ただ、気づきあり」なのだ。気づきが光となって世界を映す。目に見えるものは光の反射である。主体性を失った気づきは神と同じ視点になるに違いない。