・『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
・『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
・『ただ一つの真実、ただ一つの法則:私は在る、私は創造する』エリン・ウェアリー
・「私は在る(I Am)」の原典/『未来を改造する【ザ・パワー】のしくみ 想定の『超』法則』ネヴィル・ゴダード
・「私は在る」(I Am)その一
・「私は在る」(I Am)その二
・「私は在る」(I Am)その三
・「私は在る」(I Am)その四
・「私は在る」(I Am)その五
・『“それ”は在る ある御方と探求者の対話』ヘルメス・J・シャンブ
「誰が」、「何を」、「どこで」「いつ」は、すべて【意識】の中のイメージです。それらは、蜃気楼(しんきろう)や夢と同じく、みな「現実的」(リアル)です。……現象の全体、そして、その中にあるあらゆるものは、【意識そのもの、ユニシティ】(単一的融合)です。存在するすべては【意識】であり、それは、【それ自身】の非現象の【主体性】の中では【自分自身】に気づいていませんが、それが客観的に現れるとき、【自分自身】によって、知覚できる現象として認識されます。もしこれが充分に理解されれば、これ以上理解することは何もありません。なぜなら、そういった理解は、個人としての個々の存在はないのだという気づきを伴うはずだからです。私たちが自分だと【考えている】ものは実体のない影、単なる見せかけにすぎず、一方、本当の真実は私たちの【本質】とは【意識そのもの】、形のないブラフマンなのです。(FT8)
【『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルド編:高木悠鼓〈たかき・ゆうこ〉訳(ナチュラルスピリット、2010年)】
末尾の括弧は著書の略称である。
アドヴァイタ(不二一元論)はヒンドゥー教の教えである。ラメッシ・バルセカールはニサルガダッタ・マハラジの弟子であった。3年間、毎日近侍(きんじ)したという。師弟という関係性はバラモン教(古代ヒンドゥー教)で最も重視される(『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集)。
しかし、である。悟りは教相判釈を超越する。凡夫は教えを論理化し、体系化し、類別し、組織化する。そこに悟りのきらめきはない。死せる知識が横たわっているだけだ。
「脳は妄想装置である」と散々書いてきたが、実は「自我」そのものが妄想だという指摘である。我々が死を恐れるのは自我の崩壊を恐れているのである。そして所有に血道を上げるのも自我を延長するためだ。人生とは自我を巡るドラマである。ともすると自我意識こそが高等生物の証拠と考えられがちだが(自己鏡像認知)、自己を客観視できるからこそ妄想が生まれるともいえよう。
自我は肉体と心から成るように見えながらも実は束縛されているだけなのだ。長時間の正座で痺れた足に自我の形跡はない。世界を認知するのは五官だが、身体(しんたい)はアンテナのような役割をしているのだろう。そして厄介なのが心である。心=自我と受け止めている人は多い。しかし実は違う。ともすると「心が傷ついた」などと、あたかも物であるかのように考えがちだが、心はどこにも存在しない。それはむしろ脳機能というべき代物で、自分の過去によって形成されたf(x)という函数(かんすう)なのだ。自分が好む反応のパターンと言い換えてもよい。
それが証拠に「心の動き」を見ている視点が確かにある。モヤモヤしたり、明るくなったり、カッとなったりする動きに「気づいている」視座があるのだ。心は因果関係を通して物語を作り出す装置である。ある出来事は既に過ぎ去ってしまったにもかかわらず、我々の心はいつまでもウジウジと感情を引きずる。心はこうして妄想を生きる。
「形のないブラフマン」とは「気づき」である。