古本屋の殴り書き

書評と雑文

インナーボディへの手掛かりとして背骨を押し立てる/『弓と禅』中西政次

・『武術を語る 身体を通しての「学び」の原点甲野善紀
『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル

 ・インナーボディへの手掛かりとして背骨を押し立てる

『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『肚 人間の重心』 カールフリート・デュルクハイム
お腹から悟る

 弓をひく時、坐禅をしている時、上下に通気(はけ)を感ずるまで脊柱を押し立てると、腰に緊張感を生じ、下腹部の空洞に力が充満し、その空洞が下方地心に向ってズボーッと通り上方、頭のてっぺんから天に向って突き抜けるものを感ずる。この緊張感(天地に通る通気の意識)こそ“主人公”の覚醒めている証拠である。この緊張感がなければ“主人公”は眠っているのである。
 この通気感は、初心者には自覚できないものであるが、脊梁骨を押し立てることに常に努力をし、それを意識しようと心を内に向けておれば、やがて通気感は意識できるはずである。矢が的に当たるか否かという外的な結果だけを意識する者は、何万年弓を引(ママ)いても通気感は得られない。道を行くとき、坐っているとき食事をするとき話をするとき、即ち日常のあらゆる生活の場において、この通気感をもつ=主人公を目醒めさせておく=ことが真の弓道であり真の修行である。日常生活のあらゆる時、あらゆる場所において通気感を持つことは、困難に思えるが、思い出した時にやればよいのである。凡人はだれでも忘れ勝ちである。私もそうです、よく忘れる。気がついたとき、思い出したときにやることにしている。そのうちに、初めよりもだんだん思い出す機会が多くなるものである。そうなれば習慣となって、案外、楽になってくるものである。

【『弓と禅』中西政次〈なかにし・まさつぐ〉(春秋社、1969年/新版、2008年)】

 今日読んだ箇所である。インナーボディへの手掛かりとして背骨を押し立てることを常の所作とする。

「主人公」とは禅語である。

禅語「主人公」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

 著者は53歳の時、校長職を務めながら無影心月流(むようしんげつりゅう)の弓術を始める。入門より8年後、見性に至る。

 背骨を押し立てることで天地の気を感じることができそうな気がする。すなわち、天地に対して直角に位置することを意識するのだろう。背中が曲がれば世の中も歪(ゆが)んで見えてしまう。

 秀徹の姿勢が参考になる。