古本屋の殴り書き

書評と雑文

肩で自己を離し骨盤に自己を据える呼吸法/『肚 人間の重心』 カールフリート・デュルクハイム

『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い』高階秀爾
『呼吸入門』齋藤孝
『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生』齋藤孝
『息の人間学 身体関係論2』齋藤孝
『釈尊の呼吸法 大安般守意経に学ぶ』村木弘昌
『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル
『弓と禅』中西政次
『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀

 ・肚とは
 ・数奇な運命のドイツ人心理学者が日本で辿り着いた「肚」の文化
 ・肩で自己を離し骨盤に自己を据える呼吸法

『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一
『静坐のすすめ』佐保田鶴治、佐藤幸治編著
お腹から悟る

悟りとは
必読書リスト その五

 心の道の修行においては、「内的肉体」の感得が決定的な意味をもつ。そのためには、知覚の特殊な【内的器官】の形成ならびに純化が必要である。それには、最初目を閉じ、静かに自分の「皮膚の下へ」入り込んでゆく感じをもつようにするのが、目的にかなっている。それからゆっくりと上から下へ、下から上へ動きながら、すべての緊張を感じ取り、それを放つ。特に呼吸の動きにじっと耳を澄ませ、呼吸が【出て】入り、出て入りするさまを聞き取る。そのようにして、徐々に内的肉体について気づき始める。
 それから、姿勢を変えることなく、つまり、姿勢を崩さずに、吐く呼吸の中に自分を少し滑り込ませる。その際、吐く息は無意識のうちに吸う息より長くなる。そのようにしてゆっくりとこの運動を繰り返す。その後初めて、正しい姿勢をとらせる最初の【動き】が始まる。それは、【離すこと】、つまり、息を吐き始めるとき、肩で【自己】を離すのである。肩を離すのではなく、いわんや、肩を落とすのではなく、肩で【自己】を離すのである。この第一番目の動きに続く第ニ番目の動きは、【自己を据えること】、つまり、息を吐ききるときに、骨盤に自己を据えることである。この自己を上で離して骨盤に据えることは、上から下への【一つの】動きの両面であるが、この動きは決して自然に移行するものではない。試しに一度、肩をすぼめて、腹を少し引っ込め、それから肩の力を抜いてみるとよい。下腹の方は少しも変わらないことが分かるであろう。骨盤に自己を据えることに、もう一つ何かが加わるのである。修行すると、すぐに上の方で多少自己を離すことができるようになることもよくあるが、崩れることなく全く信頼して、骨盤に自己を据える状態にはほど遠いものである。ここで、「基盤」に対するある種の不安が表に出て来ることがよくあり、上方の自我空間に自己を安全につなぎ止める習慣が身についていることが明らかになる。

【『肚 人間の重心』 カールフリート・デュルクハイム:下程勇吉〈したほど・ゆうきち〉監修、落合亮一〈おちあい・りょういち〉、奥野保明〈おくの・やすあき〉、石村喬〈いしむら・たかし〉訳(広池学園出版部、1990年/第2版、麗澤大学出版会、2003年/原書、1962年)3500円】

 エックハルト・トールはドイツ生まれなので、ひょっとしたら読んでいた可能性もある。あるいは外から内側へ向かう意識転換は同じ軌跡を歩むということなのだろう。

「吐く呼吸の中に自分を少し滑り込ませる」、「息を吐き始めるとき、肩で【自己】を離す」、「息を吐ききるときに、骨盤に自己を据える」――参禅と弓術からこれほど細密な身体操作を学び、表現し得たのは哲学的な素養によるものだろう。日本人は論理思考が苦手だ。外国人から見た日本文化は、優れた「第三の眼」として我々に多くを教えてくれる。

「頭から肚へ」という指向性は高度情報化が進んだ現在、ますます重要なテーマとして迫ってくる。ネット情報に溺れてしまえば、触覚だけが肥大した昆虫のような姿となるに違いない。

 また、ダイエットやボディビルは「他者に見せる」ことが目的になっており、体の内部に視線が向いていない。その意味で彼女や彼が勤(いそし)しむ運動は、一種の鎧(よろい)やコスプレとして機能する。結局、他人からの視線や称賛を求める生き方となり、心が満たされることはないだろう。

 瞑想や呼吸法が凄いのは、たとえ牢獄にあろうと、全身麻痺になろうと実践可能な事実である。凡人であれば不自由な境遇を思考することで不幸の意味を掘り下げてゆくだけだ。