古本屋の殴り書き

書評と雑文

粒子と波動の二重性/『科学的 本当の望みを叶える「言葉」の使い方』小森圭太

『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人
『アファメーション』ルー・タイス
『「原因」と「結果」の法則』ジェームズ・アレン
『「原因」と「結果」の法則2 幸福への道』ジェームズ・アレン
『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー
『未来は、えらべる!』バシャール、本田健
『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
『こうして、思考は現実になる 2』パム・グラウト
『自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミング』アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ
『“偽りの自分”からの脱出』梯谷幸司
『大丈夫!すべて思い通り。 一瞬で現実が変わる無意識のつかいかた』Honami
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
『潜在意識をとことん使いこなす』C・ジェームス・ジェンセン
『借金2000万円を抱えた僕にドSの宇宙さんが教えてくれた超うまくいく口ぐせ』小池浩
・『借金2000万円を抱えた僕にドSの宇宙さんがあえて教えなかったとんでもないこの世のカラクリ』小池浩
・『科学的 潜在意識の書きかえ方』小森圭太

 ・夢が叶った状態をイメージする
 ・粒子と波動の二重性

『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり

 以前、NHKEテレでやっているビース又吉さんの番組「ヘウレーカ」に量子コンピュータの専門家である東北大学の大関准教授が出演されていたのですが、その際に量子の性質をこんな言葉で説明していました。
「量子は可能性の中にある。ただし見るまでは」
 どういうことかというと、量子は人間が目視する前はエネルギー(波)の状態であり、物質の状態ではないのです。
 エネルギー(波)と言われてもピンとこないと思いますが、例えばあなたの周りにもさまざまな音がありますよね? あれは音波という波であり、空氣を振動させるエネルギーです。
 物質の最小単位である量子も、人間が見るまではそのようなエネルギーの状態ということなのです。
 人間が見るまでは物質になっていないので、人間が見た際に量子がいつ(時間)どこ(位置)に粒(物質)となって現れるかは、あくまで確率(可能性)でしか示せません。ちょっと難しいですが。
 もう少し簡単に言えば、そもそも量子は「たぶんこんな感じ」とか「おそらくこうなっている」というような曖昧な状態にあり、確定した状態にはない、ということです。人間が見るまでは、ね。

【『科学的 本当の望みを叶える「言葉」の使い方』小森圭太〈こもり・けいた〉(ダイヤモンド社、2020年)】

 これを、「粒子と波動の二重性」という。

 では歴史を振り返ってみよう。ホイヘンスが「光の波動説」を唱えた(1690年)。直後にニュートンが「光の粒子説」で反論した。1805年にヤングの実験で科学者は波動説に傾いた。アインシュタイン光電効果の実験(1905年)で光子が示され、ハイゼンベルク不確定性原理(1927年)によって量子の二重性が明らかとなった。

 で、ヤングの実験を拡張したのが二重スリット実験である。電子銃や光子銃が登場し、量子を1発ずつ発射できるようになった。まったく不思議なことだが、量子は人間が観測していると粒子となって現れ、観測していなければ波として振る舞う。たとえ1個であったとしても。

量子もつれ/『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』ルイーザ・ギルダー

 アインシュタインは批判した。「私たちが見ていないときには月が存在しないというのか」(『量子力学の哲学 非実在生・非局所性・粒子と波の二重性』森田邦久)と。

 二重スリット実験で干渉縞(かんしょうじま)ができるのは電子が二つのスリットを同時に通り干渉したためである(重ね合わせ状態)。ところがどちらのスリットを通るか観測すると干渉縞ができなくなる。これを「観測によって波動関数が収縮した」と表現する。

 では、不詳私めがアインシュタインにお答えしよう。「その通り」と。存在は常に観測によって確認されるのだ。例えば中年期に入ると、「あの同級生は元気だろうか?」と思い、何かの機会に別の友人に尋ねると「既に亡くなっていた」ということがある。

 私の母は札幌にいるが今この瞬間に観測しているわけではない。今、私の五感が及ぶ世界に母は存在しない。つまり、母は「可能性として存在」しているわけで、明日にでも私が札幌へゆけば直接会うことができるだろう。すなわち、「会った瞬間に」収縮していると考えることができよう。

 もっと踏み込もう。自我意識は感情と思考によって「収縮」する。その度合いを説いたのが十界(じっかい)なのだ。下に行けば行くほど強固な自我が形成される。あるいは好き嫌い、損得、善悪といった判断を下す時にも自我は収縮する。自我という粒が観測される時、波としての可能性は失われる。こう考えると「死の恐怖」こそが自我を成り立たせているように見えてくる。諸法無我とは感情と思考から解き放れた自由な境地を示しているのだろう。