・『「あの世」の科学・「この世」の科学 宇宙は意識が作ったのか』天外伺朗、桜井邦朋
・時間の対称性と自由意志
・『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
・意識
天外●ここでもう一つポイントがあります。アインシュタインの理論では、時間と空間とを区別していません。ですから「時空間」という言い方をしています。時間を、空間とともに四次元空間の座標軸の一つと考えることの結果として、理論的には、時間も向きがなくなってしまいました。ということは、過去も未来も、まったく対称に扱われています。これは私たちが生活している現実とは違っています。
私たちが生活している現実では、空間は行ったり来たりはできますが、時間は行ったり来たりはできません。過去に行けないし、未来に行こうと思っても行くことはできません。しかし、アインシュタインの理論では時間は対称ですから、原理的には、過去に行こうと思えば過去にも行ける、というのがこの理論の特色です。このことから、タイムマシンというSF的な話が生まれ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などという映画ができたわけです。現実の生活実感とはまったく違いますが、理論的にはそういうことも有り得るかもしれないのです。
これで何が問題かというと、アインシュタインの理論によれば、未来が全部固定されていることになります。過去が固定されているのと同じように、未来も決まってしまっている。その決まっている未来に向かって、私たちはどんどん進んで行くということになるわけです。3メートル先に何がある、大阪に行くと大阪駅がある、というのと同じように、時間に関しても未来の様子というのは全部決まっている。それに向かって単に進んでいくのだという理論です。(中略)
すると、宇宙はアインシュタインの理論どおりにどんどん進んでいるが、その中で生活している生物は、それから切り離して考えるというのがいまの物理学の実態です。アインシュタインの理論の中には自由意志は入らない。つまり、私たちが自由意志で何か決断してそれによって未来が変わるということは、アインシュタインの理論からは出てこないわけです。したがって、これはある意味では理論的にまだ不備な学説だと思います。【『意識は科学で解き明かせるか 脳・意志・心に挑む物理学』天外伺朗〈てんげ・しろう〉、茂木健一郎〈もぎ・けんいちろう〉(ブルーバックス、2000年)】
1998年に行われた対談を編んだもの。20世紀と21世紀の知見や知識は隔絶しているのだが、両者の志向は今読んでも色褪せていない。
かつて天外を腐したが本書で完全に見直した。ただし、「ある意味では理論的にまだ不備な学説」との一言が余計で臆断の人物に映る。そもそも宇宙スケールの論理を扱いながら、人間スケールの理窟を当てはめる意味が理解できない。もしもそれを言うのであれば、人類が宇宙に及ぼし得る具体的な影響を述べるのが先だろう。
物理学の数式には時間の対称性がある。つまり時間を引っくり返しても数式から求められる解は同じだ。ところが我々の意識が認識する世界では明らかに「時間の矢」が存在する。割れた窓が風に吹かれて元通りになることはないし、コーヒーと混ぜたミルクが分離して1箇所に集まることもない。
熱いものは必ず冷める。これが熱力学第二法則でエントロピーは必ず増大することを示す。
宇宙の温度は、ビッグバンを仮定しますと、宇宙誕生から3分後に10億度でしたが、30万年後は3000Kまで下がりました。さらに宇宙の膨張に伴い、今日では約2.75K(約-270.4℃)の温度まで下がっています。それは、1965年アルノ・ペンジャスとロバート・ウィルソン等によって観測された背景放射で説明されます
私は予(かね)てから「人間原理」という考え方を信じている。しかしながら最近、もう一歩突っ込んで「意識原理」説に傾きつつある。意識とは「観察主体」である。
・意識の物理法則/『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論』妹尾武治
昨今は量子論から自由意志を説明しようとする向きもあるが、私の中では不思議なことに、量子の非実在性・非局所性・二重性を知れば知るほど、なぜか決定論(運命論・予定説)に傾いてしまう。そもそも「自由」という概念自体が錯覚のような気がする。「我々は自由に走ることができる」――この言葉は重力からの自由を意味しないのだ。つまり、我々が考える自由とは「ある制限の中における自由度」に過ぎない。または、不自由からの解放という程度であろう。
パソコンやインターネットの出現は人間のコミュニケーションを劇的に変えたが、新たな知性や新たなコミュニティを生むまでには至っていない。私は密かに教祖のようなミュージシャンが出てくることを待ち望んでいたのだが、ドイツ国民を熱狂させたヒトラーほどの人物すら登場してない有り様だ。ネット回線でのつながりは意外と弱いのだろうか? せめて、地域で行われている祭りを超える感情の高まりが実現できないものか。
悪党や詐欺師がネットを駆使しているにもかかわらず、善人が駆使できていない現実を嘆くものである。