古本屋の殴り書き

書評と雑文

欲望からの解脱/『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編

『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『ニュー・アース』エックハルト・トール

 ・認識の中に認識をする人は存在しない
 ・あなたの櫂を投げ捨てなさい
 ・来ては去っていくもの
 ・欲望からの解脱
 ・心が止まれば静寂に満たされる

『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルドー編
『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

悟りとは
必読書リスト その五

新たな質問者●この種の罠、このタイプのサマーディとあなたが語る至福では何が違うのでしょうか? 私が内側に引きこまれていくとき、そこには同時に私を自動的に内側に引きこもうとする魅惑があり、そこでは心がとても平和になります。それは強烈に一点に集中された静寂のように感じられます。ここ、あなたの臨在の中で、誰もがこのような体験をしていることを私は知っています。もっともいつもではないでしょうが。ですから私の質問は、「努力して得るサマーディの至福と、あなたの臨在の中で自然に感じられる至福や静寂との違いは何でしょうか?」ということです。

パパジ●あなたが感じる平和は、何もしていないことの結果なのだ。それが違いだ。

質問者●本当です。そのとおりです。

パパジ●何もしないこと、何も達成しようとしないことで、それは起こる。それはすべての活動を棄て去ろうと決意した瞬間、即座に、一瞬にして起こる結果なのだ。そのとき、その瞬間、あなたは平和と幸福のうちに在る。この瞬間があなたに幸福を与えるのだ。
 通常、幸福の感覚はどのようにして現れるだろう? それはある特定の欲望が満たされた瞬間に起こるのだ。
 あなたは「隣の家の人がメルセデスの新車を予約したばかりだから、私もそれが欲しい。海岸沿いの新しいマンションも購入したい。これらが私を幸せにしてくれるだろう。なんとしてもそれを手に入れよう」と考える。
 あなたは欲望を満たすために働きはじめる。そして銀行からの借金と友人からの援助を得る。誰もがあなたの新しい熱狂に加わる。妻は新車が欲しい。子供たちも新車が欲しい。誰もが新車を望んでいる。今ではもはや古いフォードでは幸せになれないとあなたは確信させられている。ついに新車は購入され、あなたは通りにそれを駐車し、誰もがそれを褒(ほ)めたたえるのだ。あなたの家の前の新車を見て皆が幸せになる。
 この過程はヨーギが至福に達するのと同じものだ。ただ欲望とその目的地が異なるだけだ。そこには至福に満ちた状態への欲望がある。彼らはさまざまな修練を通してそれに到達し、至福の体験を得る。そしてその状態から出たとき、非常に自分に満足する。なぜなら、彼らは欲望の対象を獲得したからだ。
 さて、この幸福はどこから現れたのだろう? 体験者は体験する前も、体験の間も、体験の後も同じだ。そこには何の変化もない。車は鉄やゴムなどでできている。それが一つの機械として製造される過程で幸福が加えられるわけではない。あなたがこれらの鉄やゴムをすべて購入したとき、幸福はあなたのものとなるのだ。実際には何が起こったのか? 新車を購入したことが、どのようにしてあなたの中に幸福の感覚を生みだしたのだろうか?
 はじめのころ、あなたは新車を得るという欲望に悩まされていた。この欲望が新車を買うための資金を集めている間、あなたを悩ませていた。だが、車を手に入れたとたん、あなたは突然幸せを感じたのだ。なぜか? なぜなら、新車を買いたいという欲望がなくなったからだ。あなたを幸せにさせたのは突然の欲望の不在であって、新たな所有物の獲得ではないのだ。
 もはや欲望がないとき、あなたは幸せだ。欲望が完全に消え去ったとき、あなたはいつも幸福だ。これが解脱だ。解脱は瞑想や聖地を巡礼した結果ではない。それは山の洞窟に暮らすことや、施(ほどこ)しをすることや、聖典を読むことでは起こらない。欲望があるかぎり、サンサーラは存在する。欲望があるかぎり、苦しみは存在する。誰もが日々の生活の中でこれを見ることができるのだ。
 目覚めの状態で幸せな人がいるだろうか? 私の答えは「誰もいない」だ。王様や億万長者はすべてを手にしている。だが、彼らは幸福ではない。最も裕福な人から最も貧しい人にいたるまで、幸福な人はいない。なぜなら、この欲望という蛇に嚙まれなかった人は一人もいないからだ。欲望は蛇だ。そしてこの蛇から逃れた人は一人もいないのだ。

【『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編:福間巌〈ふくま・いわお〉訳(ナチュラルスピリット、2007年)】

来ては去っていくもの」の続きのテキストである。長文のため3回に分ける。

「あっ」と息を飲んだ。脳内で稲妻が走った。即座にわかった。なぜこれほど簡単な構図を見逃していたのだろう? むしろそのことが衝撃であった。答えは眼の前にあったのだ。

 サンスクリット語ニルヴァーナ涅槃)とは「消えた」という意味である。「滅、寂滅、滅度、寂、寂静、不生不滅などと漢訳される。また、解脱、択滅(ちゃくめつ)、離繋(りけ)などと同義とされる」(Wikipedia)。消費によって得られた満足感も「涅槃」(ねはん)であったのだ。あれほど欲しいと切実に願い、身を焦がすような思いに苛まれたにもかかわらず、手に入れた途端、「欲望は消える」のだ。

 現実生活を娑婆(しゃば)世界と名づける。これが此岸(しがん)である。一方、悟りが目指すのは彼岸(ひがん)である。彼岸は「あの世」と受け止められているが、むしろ「この世」(此岸)から離れる意義がある。ニルヴァーナは彼岸だ。

 繰り返される消費によって得られるニルヴァーナはまさしく「業」(ごう)そのものである。輪廻(りんね)という言葉がぴったり当てはまる。我々は繰り返す。仕事を繰り返し、家事を繰り返し、好きな曲を繰り返し、感動した映画を繰り返し、読書を繰り返し、同じ過ちを繰り返し、少しの善と多くの悪を繰り返す。

 途切れ途切れの断続的なニルヴァーナが悟りに至ることはない。そもそも私は生まれてから60年間、「消費によるニルヴァーナ」にすら気づいていなかった。こんな簡単な煩悩(ぼんのう/欲望)の動きすら見つめてこなかったのだ。

「何もしないこと、何も達成しようとしないことで、それは起こる」――修行もまた欲望の裏返しであることが一言(いちごん)のもとに切り捨てられている。これを老子は「無為自然」(むいじねん)と説いた(※「じねん」は仏教語特有の読みとされるが、「しぜん」と読むようになったのは後世のことであろう。「おのずからしからしむ」の意である)。

 凡夫(ぼんぷ)には瞑想が難しい。思考から離れることができないためだ。あれこれと色々なことを考える。気になることや心配事が過(よぎ)る。長らく抱えてきた不満や鬱積が頭をもたげる。「坐っているだけで何が変わるというのだ?」などとイライラしてくる。背中が痒(かゆ)くなってくる。お尻が痛くなってくる。次の予定を思い出す。そろそろ準備をしなくては――こうして代わり映(ば)えしない日常に戻ってゆくのである。「何もしないこと、何も達成しようとしないこと」はかように難しい。

 意識はあるが体が完全に麻痺している「閉じ込め症候群」の患者の多くが幸せだと感じているとする調査結果が2011年に発表された(オンライン医学誌「BMJ Open」)。パパジの言葉は真実なのだ。