古本屋の殴り書き

書評と雑文

情報は死んでいる/『アーカイブス野口体操 野口三千三+養老孟司(DVDブック)』野口三千三、養老孟司、羽鳥操

『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生』齋藤孝
『野口体操 感覚こそ力』羽鳥操
『野口体操・からだに貞(き)く』野口三千三
『野口体操・おもさに貞(き)く』野口三千三
『野口体操・ことばに貞(き)く 野口三千三語録』羽鳥操
『原初生命体としての人間 野口体操の理論』野口三千三
『身体感覚をひらく 野口体操に学ぶ』羽鳥操、松尾哲矢

 ・情報は死んでいる

『野口体操 マッサージから始める』羽鳥操
『「野口体操」ふたたび。』羽鳥操
『生体の歪みを正す 橋本敬三・論想集』橋本敬三

身体革命
必読書リスト その二

 1988年晩秋に、話は遡ります。
 当時、74歳を迎えた野口三千三先生は、先生がなさる野口体操の授業を、ビデオで記録することを承知してくださいました。先生は、長年にわたって、写真はもとより映像化をかたくなに拒絶してこられました。理由は、「野口体操には決まったカリキュラムは作らない。固定したくない」という思いが強かったからです。
 その気持ちを裏付ける語録が残されています。

【「すべての物事に絶対的な基準はない。すべての基準は相対的にそのつど、新しく自分のなかに生まれるのだ」】(野口三千三

 この語録には野口体操の基本姿勢が表れています。野口体操の底流には、いささかことばはかたいですが、相対主義的な価値観が流れ、量的・分析的・客観主義への強烈な異議申し立てがあります。先生と先生が創始した野口体操の独創性や、枠にはまらない思想は、「情報化」と対局にあります。
 体操は、否、生きものは、動き続けるもの、変化流動し続ける存在として、先生のなかでは捉えられていました。二度と同じ時、同じ所には戻れない。輪廻転生がその本質であると語っておられます。先生のイキイキとした授業は、そのつど新しい切り口で、自然を、人間を、自分を、社会を、文化を、捉えなおす鮮やかさに満ちていました。先生にとって授業は、生きものそのものであったといえます。
 ですから「野口三千三授業記録の会」でビデオ記録をはじめるということは、先生の生きる姿勢と真っ向から対決するものでした。
「二度と再現されない授業だから、記録として残したい」という私の思いと、常に変化し、固定化を拒み、毎回新鮮で刺激に満ちた授業を望む先生との間で、何度となく話し合いをもってきました。
 今にして思えば、先生にとっては、「情報は変化しないから意味がある」そのことが問題だったのです。殊に情報は、ある条件のなかで、ある範囲に限って、何事かを固定したものだったから問題だったのです。自分で自分をも規定したくない、束縛したくない。そうした思いの強い先生でした。(「アーカイブス野口体操について」羽鳥操)

【『アーカイブス野口体操 野口三千三+養老孟司(DVDブック)』野口三千三〈のぐち・みちぞう〉、養老孟司〈ようろう・たけし〉、羽鳥操〈はとり・みさお〉(春秋社、2004年)】

 ブッダ孔子がテキスト化を許さなかった意味がやっとわかった。ソクラテスを含めてもいいだろう。イエスに関しては存在しなかった可能性があるので加えない。

 ライブとライブ映像は別物なのだ。

 21世紀に入ってから、あらゆる事象を情報とアルゴリズムで捉える見方が一気に広まった。私はそこから宗教をも情報として考えるようになった。だが、人の死は単なる情報ではない。レヴェリアン・ルラングァの悲嘆と苦悩もまた単なるアルゴリズムではないのだ。

 映像化を許さなかった事実から野口の授業に対する真剣さが窺える。それは一期一会の舞台であったのだろう。であればこそ一回一回の授業はまた完結していなければならなかったはずだ。クロード・モネが多数描いた「睡蓮」が独立した作品であるのと同じように。

 野口三千三が辿り着いた高みは枢軸時代の先哲に近い位置であったのだろう。体操を通して人間と自然と宇宙にまで迫る姿勢は日本の誇りといっても過言ではない。

 書籍は122ページの小品でありながらも超重量級の内容だ。羽鳥操の師を喪った悲嘆と報恩の思いが行間から滴り落ちてくる。「先生!」という叫び声を確かに私は聞いた。

 DVDについては万全の体調をととのえた上で視聴する予定である。