古本屋の殴り書き

書評と雑文

2枚の騙し絵/『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』ビル・ブライソン

『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議』吉田たかよし

 ・生命体に指揮者はいない
 ・視覚情報は“解釈”される
 ・2枚の騙し絵
 ・非運動性活動熱産生(NEAT)を増やす
 ・ホルモンの多様な機能
 ・免疫系の役割
 ・アルツハイマー病の原因は不明

視覚
見る

必読書リスト その三

 また、脳は混沌の中にパターンを見つけ、秩序をつくり出すのが並外れて得意だ。それを示す、よく知られた2枚のだまし絵を取り上げてみよう。

 次ページの右の図は、ほとんどの人にはでたらめな黒い斑点にしか見えない。ところが、絵の中にダルメシアンがいると指摘されると、不意にほとんど全員の脳が欠落した輪郭を補い始め、全体の構成を意味のあるものにする。このだまし絵は1960年代からあるが、最初に誰がつくったのか、誰も記録に残していない。2枚めのだまし絵には、きちんといわれがある。1955年にイタリアの心理学者ガエタノ・カニッツァがつくったことから、「カニッツァの三角形」と呼ばれる。もちろん、実際には絵の中に三角形は存在しない。あなたの脳がそこに置いただけなのだ。
 脳がこういうことをするのは、できるかぎりあらゆる方法であなたを助けるよう設計されているからだ。しかし逆説的に言えば、脳は驚くほど当てにならない。数年前、カリフォルニア大学アーヴァイン校の心理学者エリザベス・ロフタスは、暗示によって人々の頭に完全に偽りの記憶を植えつけられることを明らかにした。幼いころデパートやショッピングモールで迷子になってひどいショックを受けたとか、ディズニーランドでバッグス・バニーに抱き締められたことがあるとか(そもそもバックス・バニーはディズニーのキャラクターではないので、ディズニーランドにいるはずはない)。ロフタスが人々に、まるで熱気球に乗っているかのように加工された子どものころの写真を見せると、被験者は多くの場合、突然その経験を思い出し、興奮気味に詳しい話をし始めた。誰ひとり、そんな経験はしていないにもかかわらず。

【『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』ビル・ブライソン:桐谷知未〈きりや・ともみ〉訳(新潮社、2021年新潮文庫、2024年)】


【隠されたダルメシアン犬】


カニッツァの三角形】

 ダルメシアンが見えない人は以下をクリックせよ。

ディスレクシアとマルチメディアDAISY -当事者そして教育者の立場から

 個人的に「隠されたダルメシアン犬」は「婦人と老婆」と並ぶ騙し絵の傑作であると思っている。この絵が凄いのは「実際の生の視覚情報」を描いていると考えられるためだ。失明や重度の視覚障害から長期間を経て目が見えるようになった人が数人存在するが、例外なく「見たものを認識できない」のだ。

『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

 このため視力が再生した人々は必ず「見たものに触れる」。そして不幸なことだが視力を得たことで鬱病になってしまう人も多いのだ。情報処理が複雑になってしまうためだろう。

 我々は幼い頃から触覚によって立体構造を確認し、影を通して太陽や照明がある上方を認識し、距離感を把握しているのだ。実際に見えている世界は「隠されたダルメシアン犬」と変わりがないのに、脳が補正し、編集を加えることで「生き生きとした現実」が創出されているのである。

 それは一種の幻覚であり、ひょっとすると妄想かもしれない。一つ証拠を挙げよう。大人になってから視力が回復した人々は「錯覚する」ことができない。つまり、錯覚には予想や予測が必要なのだろう。錯覚は決して視覚の弱点ではない。錯覚することで生存率を上げていると考えられる。正確に肉食獣を観察するよりも、錯覚して逃げた方が生き延びる確率は高まる。

 もう一つ大事なことを書いておこう。それは、「騙す」という行為についてである。知能の高さや人間性の証(あかし)として善良さや思いやりを挙げる人が多いことだろう。だが、思いやりも実は本能に過ぎない(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

 知能の高さを端的に示す行為は「騙す」ことである。騙すためには相手が何を考え、何を信じているかを理解する必要がある。つまり、「心の理論」を弁えている必要があるのだ。

 静かに考えてみよう。資本主義経済における成功者は、大企業の社長・投資家・政治家・宗教家などである。あるいは売れっ子の作家・映画監督・俳優と考えれば、彼らが「騙すことの天才」であることに気づくだろう。

 人々がスポーツに熱狂する理由は、「騙し」が通用しないためなのだろう。とはいえ、フェイントなどの騙し技術があるのは確かである。私がこよなく愛するバドミントンは、ほぼ「騙し合い」といってもよい競技だ。

 部下に拷問をさせて自白を引き出した紅林麻雄〈くればやし・あさお〉は名刑事と謳(うた)われた。高知県警はバスに突っ込んで死亡した白バイ隊員の保険金を詐取するために、「バスが白バイに衝突した」証拠を捏造(ねつぞう)した(『あの時、バスは止まっていた 高知「白バイ衝突死」の闇』山下洋平)。

 アメリカの嘘はもっとでかい。戦前の日本軍を悪の権化に仕立て、マッカーサーが示した原則にのっとり、9日間で日本国憲法を仕上げた。更には日本の伝統や精神性を記した書物7000冊以上を焚書(ふんしょ)扱いした(『GHQ焚書図書開封1 米占領軍に消された戦前の日本西尾幹二全12冊)。日本の歴史の削除・上書きは今日まで続いている。

 私が幼い頃、「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉を皆が使った。現在のエリートは嘘で金儲けをする。昭和初期のエリートは特攻隊を志願して全員が散華(さんげ)した。日本に真のエリートはいない。