古本屋の殴り書き

書評と雑文

「反革命宣言」その一/『文化防衛論』三島由紀夫

三島由紀夫

 ・果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年
 ・「反革命宣言」その一
 ・「反革命宣言」その二
 ・「反革命宣言」その三
 ・「反革命宣言」その四
 ・「反革命宣言」その五
 ・反革命宣言補註 その一

必読書リスト その四

反革命宣言

 一、われわれはあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問わず、共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企図、あらゆる行動に反対する者である。この連結の企図とは、いわゆる民主連合政権(容共政権)の成立およびその企図を含むことはいうまでもない。国際主義的あるいは民族主義的仮面にあざむかれず、直接民主主義方式あるいは人民戦線方式等の方法的欺瞞に惑わされず、名目的たると実質的たるとを問わず、共産主義が行政権と連結するあらゆる態様にわれわれは反対する者である。
共産党宣言」は次のごとく言う。
共産主義者は、これまでの一切の社会秩序を強力的に顚覆〔てんぷく〕することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。」
 われわれの護らんとするものは、わが日本の文化・歴史・伝統であるが、これらは唯物的弁証法的解釈によれば、かれらの「顚覆せんとする一切の社会秩序」に必然的に包含されるからである。(※〔振り仮名〕を付け加えた)《初出『論争ジャーナル』昭和44年2月号》

【『文化防衛論』三島由紀夫〈みしま・ゆきお〉(新潮社、1969年ちくま文庫、2006年)】

 細かいことだが冒頭の「もの」と、後の「者」は対応してないのだろう。最初に違和感を覚えたのは旧仮名づかいになっていないことだ。手元にあるのは新潮社版だが特に但(ただ)し書きもない。

 発表した昭和44年(1969年)は三島が自決する前年である。生まれが大正14年(1925年)1月14日なので、年齢は昭和の年号と一緒になる(昭和元年は12月25~12月31日まで)。昭和は64年まで続いたので昭和の約2/3を生き、そして死を選んだ。来年が生誕100年である。

 刊行から55年を経た今こそ読まれるべき一書であり、その先見の明に誰もがたじろぐことだろう。

 昭和45年(1970年)11月25日、三島の切腹を政治家は狂気の沙汰と罵り、学者や作家は嘲笑した。高度経済成長に浮かれていた国民は「毛色の変わったニュース」という程度の受け止め方をした。私は小学1年生だったため全く記憶には残っていないが、「同性愛が昂じて、おかしな方向に走ってしまった事件」と長らく誤解していた。

 三島由紀夫日米安保改定と安保反対の学生運動を凝視する中で敗戦後の日本の姿を把握し一点突破を試みた。しかし、彼の叫び声に返ってきたのは自衛隊員からの野次であった。経済的繁栄は人間を堕落させるのだろう。敗戦の口惜しさを感じる人は既にいなくなっていた。

 三島の眼差しは共産主義をも鋭く見据えた。その毒性まで見抜いていた人物は他にあるまい。戦後の学者という学者、文化人という文化人が左側になびいていた時代であった。昭和33(1958)~44年(1969年)まで日本社会党衆議院で150前後の議席数を保っていたのだ。昭和40年(1965年)1月1日には朝日新聞が日本で初めて発行部数500万部を達成した。

 当時、保守は右翼と同義であった。左翼は革新ともてはやされたが、右翼と呼ばれるのは現在の「反社会的勢力」に近いニュアンスがあった。それでいて過激派には優しい時代でもあった。

 革命とは過去の否定である。一切を黒歴史として扱い、否定し、反面教師にまで仕立て上げるわけだ。

 三島は日本の伝統を否定することを断じて認めなかった。多くの日本人はそんなことに興味も関心も持たなかった。日本の近代史を再認識するようになったのは「新しい歴史教科書をつくる会」(1997年)が誕生し、小林よしのり作『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(1998年)が出てからのことだ。