古本屋の殴り書き

書評と雑文

漢字の誕生/『沈黙の王』宮城谷昌光

 ・漢字の誕生

宮城谷昌光

 ことばは、王や王子が発する場合、臣下ばかりか神霊をもうごかせる力をもち、いわば商の人々が想像する宇宙の力をひきだせる道具である。それとはべつに、剣は、商の人々と交流のない、いわば宇宙の外にある神々の力を呼びよせる力をもち、祖先の霊力では威圧できないほど強力な外敵と戦うとき、やむをえず、異物ともいうべき神々の力を借りるための道具である。

【『沈黙の王』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(文藝春秋、1992年/文春文庫、1995年)以下同】

 ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』を読むと本書の風景ががらりと変わる。「神霊」とは右脳であり、「ことば」は左脳なのだ。「言霊の呪能」(白川静)が表象化(文字化)された時、右脳から左脳へのシフトが起こったのだろう。

 二分心時代において言葉はコミュニケーションのツールではなく、命令として機能したのだろう。反論には感情もさることながら合理性が求められる。右脳からの声に支配されていた人々は、左脳優位な王が発する言葉に逆らうことを知らなかったはずだ。

 そして王は神を騙(かた)ったのだろう。神は外部化されて右脳から去ったのだ。

 人がもしことばを失えば、王朝をはじめとして、人のつくっている組織は、ただちに崩壊し、人は孤独に生きなければならない。人がもつ恐怖のうちで、それがもっとも大きい。

 孤独を忌避するのは群れで生きる動物の本能である。文学的な形容は必要ない。群れから逸(はぐ)れることは死を意味するのだ。一匹狼は観念の中にしかいない。なぜなら狼もまた群れで生きる動物なのだから。我々はともすると「群れ社会の中で個を圧殺される」と考えがちだがそうではない。個人から離れて、「群れ」という個性を生きるのだ。

「嗣王よ。あなたは、人のことばではなく、天地のことばを創(つく)りたい、とおっしゃるのですか」
 子昭は深くうなずき、ふりむいて、傅説(ふえつ)に微笑をみせた。傅説はのけぞりそうになった。
 ――もしも、それができれば、商のことばは、山河を超え、いや空や海さえ超えて、ひろがるだろう。
 このとき傅説は、子昭という嗣王が開祖の湯王にまさるともおとらぬ英主になることを予感した。

 王は武丁〈ぶてい〉である。

 武丁の口がひらき、傅説の口もひらいた。
「わしはことばを得た。目にもみえることばである。わしのことばは、万世の後にも滅びぬであろう」
 群臣はどよめいた。武丁がよどみなくことばを発したのである。
 ――目にもみえることばとは、なんであろう。
 そんなささやきが飛び交ううちに、神官のなかから、貞人(ていじん)とよばれる者が選抜された。かれらは武丁の意思を知らされて啞然(あぜん)とした。
「象(かたち)を森羅万象から抽(ひ)き出せ」
 その作業を命じられたからである。(中略)
 こうして武丁は中国ではじめて文字を創造した。あまつさえ武丁の在位中に商の武威は添加を圧し、商王朝としては最大の版図を有することになった。

「象(かたち)を森羅万象から抽(ひ)き出せ」――この名科白(せりふ)の感動が色褪せることは決してないだろう。作家に武丁が憑依(ひょうい)したのだろう。かくして甲骨文字が誕生する。

 文字は時空を超える。文字の誕生は第一次情報革命といってよい。文字こそは文化と文明の母体である。

 こうして人類は時代を超えて左脳がつながることを可能にした。あとは右脳だ。沈黙した神々を目覚めさせることができるかどうかで人類の運命は分かれることだろう。

 ジュリアン・ジェインズと宮城谷昌光が奇(く)しくも「沈黙」をタイトルにしているところがまた興味深い。