霊的な旅が本格的に始まるのは、私たちの人生を実質的に方向転換させる無償の恩寵(おんちょう)――啓示あるいは悟りの一端――に接し、それを徹底的に追い求めようとするときです。私たちがさらに豊かな恩寵を求め、それを受けるにふさわしい身になろうとするなら、全力を集中して、生活を改革し、霊的修練に取り組み、神との一体性の探求にすべてを捧げていかなければなりません。この改革は私たちがなすべきことですが、これに関して私たちに可能なのは、せいぜいそこまでです。人間が自らの努力によってもたらすことのできる変化は、一時的かつ表面的なものでしかなく、しかも、後戻りしてしまう場合さえあります。私たちの努力が終わるところ、つまり、自分に可能なすべてをやり終えたときに初めて、神がイニシアチヴをとり、真の変容プロセスが始まるのです。神の恩寵による変容だけが、後戻りすることのない深遠な変容を、私たちの最も深い存在体験に起こすことができます。ですから、真の変容は改革〔の努力〕が終わったところから始まると言えるでしょう。
【『神はいずこに キリスト教における悟りとその超越』バーナデット・ロバーツ:大野龍一〈おおの・りゅういち〉訳(日本教文社、2008年/原書、1991年)】
本書は超重量級過ぎて、読むのを途中(100ページ)で断念した経緯がある。こんなことは、プリーモ・レーヴィ著『溺れるものと救われるもの』以来のことだ。「まだ、読む資格がない」と判断した。
「悟りの他性」とはクリシュナムルティの言葉である。浄土の教えであれば「他力」と説く。ある地点を超えると、作用-反作用の力学が働かなくなるのだろう。努力-報酬、修行-悟りというのが実は極めて世俗的な志向であることがわかる。人間は食べ物ひとつ自分で作ることはできないのだ。自然の恵みがなければ我々は生き永らえることすら不可能なのだ。水や空気も同様だ。
悟りの地平には太陽の光が欠かせないのだろう。それは自分の力で輝かせるべきものではない。ただ、太陽が昇る時刻を待つことが求められる。我々にできることは眼をしっかりと見開くことだけだ。
変容に憧れると変容は遠ざかってゆく。ウルトラマンや仮面ライダーの変身とは違うのだ。
川の水は刻々と流れ岸辺を洗う。生という川の流れを実感できれば、それがそのまま変容に通じるはずだ。