古本屋の殴り書き

書評と雑文

魂の暗夜/『神はいずこに キリスト教における悟りとその超越』バーナデット・ロバーツ

『無自己の体験』バーナデット・ロバーツ

 ・神との合一
 ・悟りの他性
 ・魂の暗夜

 キリスト教神秘主義の伝統では、このプロセスの始まりは「魂の受動的暗夜」として知られています。

【『神はいずこに キリスト教における悟りとその超越』バーナデット・ロバーツ:大野龍一〈おおの・りゅういち〉訳(日本教文社、2008年/原書、1991年)以下同】

 一瞥体験後に「魂の受動的暗夜」が訪れるらしい。個人的には「神秘主義密教」と考えている(ヴェーダとグノーシス主義)。キリスト教神秘主義と聞けばマイスター・エックハルト(1260年頃-1328年)の名前くらいしか思い浮かばない。

 精神(サイキ)または人格の全体が、この無の状態に適応し始めるにつれ、内なる目は次第に暗闇に慣れてきます。そしてやがて、この深い暗闇の中に、神の顔が出現します。キリスト教では、このプロセス全体は「変容的合一」と呼ばれています。ですから、魂の暗夜に入ることは、「合一状態」、すなわち、神と合一した生活の始まりなのです。この暗夜の中で起きる大きな変化は、それまで確実に存在していた「生きているという感覚」が、神の現存という筆舌に尽くしがたい感覚に取って代わられることです。そこでは、神と自己との区別がない、ただひとつの「【在る】」という感覚があるだけです。この変化は、「我と汝」の意識から、純一な「我々」意識への移行と表現されるかもしれません。この変容プロセスの終着点は、決定的な合一の啓示をその特徴とします。私たちの深奥の自己は神との一体性の中に隠され、ただただ神聖な一つの中心が現れるのです。
 この啓示とともに、内奥へ向かう私たちの旅は完結します。私たちは最も深いところ――神聖な中心――よりも前へ進むことはできません。この神聖な目的地に達すれば、それ以上望ましいものは何もないので、あたかも、この世に生きる人間に可能な最終地点にたどり着いてしまったかのように思えるでしょう。周りを見回しても、その先へ続く道はありません。あるとしたら、永遠の祝福の中に溶け込んでしまうことですが、その状態に入るならば、これからも地上に存在し続けることはできないでしょう。その永遠への第一歩は、私たちのほうから自発的に踏み出すことはできません。その選択は私たちがするものではないからです。私たちに残されたことは、この新たな合一状態を日常生活で実践することです。そこで、今度は世俗の現実生活(マーケット・プレイス)へと戻る旅になります。最初は内へ向かう旅でしたが、一転して、外へ向かう旅が始まるのです。そのとき私たちは気づいていませんが、外部の現実世界へと向かうこの段階は、旅の全行程のなかできわめて重要な不可欠の部分です。合一の啓示の先にある現実世界は、さらに大きな目的へと続く未知の道なのです――

 ここでいう「合一」とは諸法無我と受け止めてよいだろう。で、問題は「神」なのだが、諸法無我であれば神の存在も消失するわけなのだが、ネドじゅんが語る「本体さん」から類推すると、「大いなる意識(=気づき)」と表現するのが正確か。

 存在の固有性が、固体から液体へ、そして気体へと昇華するのだろう。あるいはミクロの原子や量子サイズで見ることができれば、どこにも「自我」など見当たらないはずだ。はたまた億光年というマクロスケールで見れば、我々の存在など点以下である。138億光年の彼方からは地球の存在すら確認することができないだろう。

「存在の永続性」が自我を成り立たせているわけだが、それこそが最大の錯覚なのだ。1000年後に小野不一が存在したという事実は確認できないことだろう。所詮、草の上の露のような一生なのだ。確かにはかないが、そこで侘(わ)び寂(さ)びを味わい、いとをかしと楽しむのが日本文化である。

「神聖な目的地に達すれば」ニルヴァーナの至福に包まれるのだろう。それは快不快を超越した生命の充実である。生命が完全燃焼して上昇気流と化すような世界だ。