古本屋の殴り書き

書評と雑文

ロシア革命を推進した日本人の諜報活動/『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎の日露戦争』水木楊

『乃木大将と日本人』スタンレー・ウォシュバン
・『世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった』神野正史

 ・ロシア革命を推進した日本人の諜報活動

『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子
『日露戦争を演出した男 モリソン』ウッドハウス暎子

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

「明石(あかし)というのは恐ろしい男だ……」
 陸軍参謀本部長・山県有朋(やまがたありとも)が、そうつぶやいている。
 ときに山県有朋、68歳。井上馨(かおる)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、松方正義まさよし)、大山巌(いわお)と並び、五元老の一角を占める。長州閥が支配する陸軍の最高権力者でもある。権謀術数にたける老政治家として、政界にもにらみをきかせていた。彼を恐れる者は多々あっても、彼が恐れる存在はそうはいない。その山県が報告書を前にして「明石というのは恐ろしい男だ」とつぶやいている。

【『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎日露戦争』水木楊〈みずき・よう〉(新潮社、1991年新潮文庫、1994年)以下同】

 冒頭の一文である。正字は「山縣」(やまがた)である。毀誉褒貶(きよほうへん)が多いのはジャーナリストに嫌われたのが理由だろう。長州閥の首領(ドン)と目されたのも面倒見がよかったことの裏返しと思われる。

 ロシア国内の過激な政治結社、通称エスエルと呼ばれる社会革命党は、プレーヴェ内務大臣、セルゲイ大公などの用心を次々に暗殺した。社会民主党自由党などの革命分子も各地でストを指導し、ポーランドフィンランドなど帝政ロシアの圧政下にあった周辺国家は独立ののろしを上げた。満州の戦線では「反戦」のビラがまかれ、ポーランド兵が脱走した。
 リトアニア、ラトヴィア、エストニアウクライナアルメニアコーカサスなどの民族も一斉(いっせい)に独立運動を拡(ひろ)げていた。迫害と虐殺(ぎゃくさつ)の歴史に喘(あえ)いできたユダヤ人も復讐(ふくしゅう)に立ち上がった。各地で武装した強盗団が銀行に押し入り、現金を強奪した。
 オデッサは極東のロシア陸海軍に物資、資材を補給する腫瘍な積み出し港だが、ここでは大衆あ武装蜂起(ほうき)した。ついに黒海艦隊の戦艦ポチョムキンでは下士官達が反乱を起こして艦を占拠した。
 反乱はやがて鎮圧され、責任者は処刑された。だが、ポチョムキンは戦闘行為を遂行する義務がある。そこで反乱が起きたという現実は、ロシア海軍内に広がる厭戦(えんせん)気分を雄弁に物語っていた。
 こうした騒乱の裏には、巨額の資金が流れていた。革命家達の多くはその資金で武器を調達し、煽動(せんどう)のためのビラを印刷し、暗殺のためのダイナマイトを製作した。その資金を惜しみなく与えていたのが、明石であり、この明石の盟友となって共に工作を仕掛けていたのが、フィンランド独立を夢見る革命家、コンニ・シリアクスである。
 明石40歳、シリアクス50歳。体中から火花を発するような激しい気性の二人が手を組んだとき、帝政ロシアは身中に爆弾を抱くことになった。

 去る2月24日、ロシアがウクライナを侵攻した。パックス・アメリカーナアメリカの戦闘以外を許さない。そんな世界に住んでいた我々にとってロシアの攻撃は「暴挙」に見える。大国の振る舞いは小国からすれば常に暴挙である。ウクライナNATO加盟が戦争の理由となったのは確かだろうが、複雑な歴史があるのもまた確かだ。

 戦争報道で初めてオデッサの位置を知った。スパイ小説では『オデッサ・ファイル』(フレデリック・フォーサイス)などで馴染みのある地名だ。要衝の地はスパイが烈しく行き交う戦場となる。

 20世紀前半の抵抗運動には社会主義の影響がある。ゲリラやパルチザンを生んだのも社会主義であった(『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編)。

 時代の大波に乗った時、一人の男にどのような仕事ができるのか――そんな感慨を抱かせる評伝である。これほどのスパイマスターを輩出しながら、たった一度の敗戦で諜報活動を手放し、インテリジェンス(情報戦)を無視した日本の現在の姿は、GHQの完璧な占領政策が今も尚、日本人の思考と精神を束縛している事実を示している。